読書

今日は冬に戻ったような寒さでした。といっても、夕方にスーパーに買い物に行った(ようやく爪切りを購入。これまでは、ハサミで切っていた!)時しか、外出していないのですが。。。
というなかで、高原基彰『現代日本の転機』(NHKブックス、2009年)を読了。

現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

 現在そのものを論じるよりも、現在の思想状況を相対化し、まともな方向性を見定めるべく、70年代以降の日本社会において、どのように理想像が語られ共有されてきたのかを、「自由」(「左バージョンの反近代主義」とされる)と「安定」(「右バージョンの反近代主義」とされる)という二つの理念を軸にして整理した本。
 その「方向性」とは、つまり、もはや(「右バージョン」の)「安定」には戻れず、かといって、それに「寄生」してのみ存在しえた(「左バージョン」の)「自由」も行く先を示すことはできず(=「見果てぬ夢」)、支持もされない、ということをきちんと理解することから始めるべき、ということだろう。
 「右バージョン」には戻れないことの主張は、今日の多くの日本人が様々な立場・理由から抱いている「被害者意識」(その中には、「左バージョン」提唱者=フェミニズムなどへの「被害者意識」も含まれる)の乗り越えという、著者の問題意識に基づいている。
 「左バージョン」への批判は、それが結局、国家・公式の政治制度や市場・労働の否定(そして、その先には何も具体的なものを見通すことができない)に至り、かつ、そのことが「私生活と利己主義(に基づく意見表明)」をもたらした、という著者の見解につながっている。ちなみに、左バージョン=「少数者・アジア」の問題点という視点は、小熊英二『1968』での最後の議論とも共通している。
 僕が特に面白かったのは、次の三つ。第一に、誰もが「被害者意識」にとらわれているという出発点の認識。それは、誰もが強迫観念にとらわれていることと表裏一体ではないだろうか。
 第二に、「安定」の仕組みとは、客観的な「不平等」の不在ではなくて、序列はあっても「その内部に入れば確実に上からの配分がおりてくるという信頼感」(253頁)を調達するものであったという理解。このようにとらえることで、著者は、格差なり貧困なりがあったかなかったか(いまあるのかないのか)という、実証的な問題設定と袂を分かっている(もっとも、「信頼感」を実証しようとすることはできるだろうが)。
 そして、第三に、日本社会論を政治学・政治思想の問題系へと接続することに、一定程度成功しているように見えること(著者は政治学者ではないが)。これは、上記の二点目の結果とも言えるが。著者は、「右バージョン」は、アメリカ流の社会集団の多元的な活動・抗争の中で形成されたのではなくて、経営者団体という、いわば特権的な一集団の影響力の中で形成されたものと見ている(ただし、単に「押し付けた」のではないが)。他方、「左バージョン」は、公式の政治回路での影響力行使を拒否しただけでなく、上記のように、仮に主張を行うとしても利己主義的なものしかもたらさなかったとされる。
 終章での三つの提案は、本書ではあくまで素描にすぎないが、その中で「熟慮する民主主義」が取り上げられていることは、唐突なことではなく(もしかしたら、そのように思う人もいるかもしれないが)、本書の議論の論理的な帰結である。
 最後に、疑問を少々。本書は、「右バージョン」と同じく「左バージョン」にも厳しい批判を加えている。しかし、そこで提起されていたとされる「自由」の問題は、誰も支持しない過去の問題になったとまで言えるだろうか。正規社員の相変わらずの長時間労働をどう考えるのか。「カネはあるが自由はない」か「自由はあるがカネはない」という状況の中で、「カネも自由も」と言ってはいけないのか(これはもしかしたら著者は否定しないかもしれない)。また、245頁以下で述べられている、序列を前提とした利益分配のトリクルダウンの今日的バージョン(となりうるもの)への厳しい批判には大いに共感するが、そこで述べられている「メンバーシップを区切る」ことの問題性に光を当てたのは、「左バージョン」の視点ではなかっただろうか(まあ、これも、光を当てたこと自体は否定しないかなとも思うが)。
 と、わりと素朴な意味での「自由」を手放したくない僕は思うのだった。