読書

持ってきた本のうち、盛山和夫リベラリズムとは何か』(勁草書房、2006年)を、今頃になって読了。

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

以前に100ページくらい(あと、一番最後のあたり)読んだところでストップしていたのだけど、最後のところ以外は全く頭に残っていなかったので(苦笑)、最初から再読。
で、今回はとてもよくわかった(海外効果?)。
全体として、『制度論の構図』以来の盛山氏らしい視点が明確で、その観点からのロールズとそれ以後のリベラリズム評価ということになっている。
立場としては、『正義論』と『政治的リベラリズム』の連続性を強調し、そのラインでのロールズの試みを反基礎づけ主義的なものとして、『正義論』以後の他の論者のリベラリズム(ドゥオーキン、セン、アナリティカル・マルクス主義あるいは井上達夫など)よりも、相対的に評価する(リベラリズム内の試みではもっともよくやったし、特にその基本的なよき社会の構想は大事、という感じかな)、というもの。
当然、こうした議論には批判もあるのだろうし、ロールズ解釈について僕には評価できないのだけど(きっと強引なのだろう)、議論としては大変興味深かった。まあ、僕は、どこかで、「普遍的に妥当する基準を根拠づけようとしても無理なんじゃないか、でも、それを言ったらおしまいか?」と思っていたところがあって、そういう感覚に適合的な議論だったのだろう。
最後のあたりの議論は、まさに政治学・政治理論が引き取るべき領域で、「経験的な正当化」と氏が呼んでいるもの(つまり「正統性」ということだが)を、安易に、特定の妥当性がある(=「理論的に」正当である)と理論家が見なす原理によって置き換えてしまわないような発想が求められているのだと思う。そうでなければ、「司法」から「立法」に場所が移されても、結局は、「司法過程」のアナロジーで「政治過程」を見てしまうことになるのではないか。
もっとも、「それを言ったらおしまい」にならないために、どうすればよいのか、という問いに答えるのは、それはそれで簡単ではない。盛山氏は「正義」ではなくて「公共性」のタームで考えていくと述べていて、実際、これ以降、「公共社会学」という言い方をするようになっているわけだが、ルールや規範が、我々が「そう思っている・見なしている」から通用していると経験的に把握することと、それらのうちのどれが「公共性」にとって規範的に望ましいものなのかを弁証することは、やはり異なる。後者の作業が盛山氏の視座からどのようになされるのか、とても関心のあるところだ。
まあ、人のことは言えないのだけど。。。