読書

今日はとある事情でお休み。
というわけで、何も考えず(いや、明日の授業の準備も少しやったけど)、『1968』を読み進める。

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

 第6章「早大闘争」まで読了。ここまでで、約400ページ。でも、これでもまだ半分も読み終わっていないという事実。
 学生運動の現代性=「現代的不幸」に基づく運動という観点を強調しつつ、しかし、年代の推移=世代の違いによって、運動の特徴が少しずつずれていくことをも指摘する。膨大な当事者の(回顧も含めた)発言と、同時代の学生以外の人々の発言とを幅広く紹介しつつ、同時に、上記のような観点から一貫してまとめ上げる力量は、やっぱり大したものだと思う。
 思うのはこんなこと。一つには、「自己表現」「自己の存在確認」「自己決定」(勝手に決められることへの反発)から、この時代の学生運動がまさに「新しい社会運動」であることが感じられるということ。要するに、「自分」の問題なのだ。「この旧時代的な「自分」と「世界」のつながり感が、この時代には切れかかっている予感があったからこそ、彼らは叛乱をおこしたのだともいえよう」(330頁)。その点を明確にするべく、著者は、個別の運動の記述を、(ややマイナーらしい)慶大闘争から始めている。だとすると、下巻の話なので全くの予想だが、連合赤軍における「総括」も、「自分」をめぐる問題という意味で、やはり現在的な現象ということになるのではないか。
 そして、二つには、90年代以降との違いはなんだろうな、ということ。「自分」と「世界」とのつながりをどう考えるのかということを意識している人たちにとって、(なんであれ)「運動」はそのつながりをつけるための機能的等価物の一つであり続けているのかもしれない。そうであれば、「反貧困」や逆に右派的とされるような運動が一定の盛り上がりを見せても、おかしくはない。ただ、何を「つながり」と見なすかは、ますます多様化しているということかもしれない。そうだとして、そのことがどういう意味を持つのか・・・というあたりで、ひとまず終わり。

【終わった後での追加】
この本を読んでつくづく感じるもう一つのことは、大学「改革」というのは、昔も今も同じような観点で行われてきたのだなあということ。
少なくとも、大学を目的別に分けて予算を重点的に配分するみたいなことは、40年前から言われていたのね。あと、こういう人材育成のために、こういう分野・学部の設置等を支援するとかそういう発想も。