総撤退論とか

 必要があって、以前に読んだ武田京子「主婦こそ解放された人間像」上野千鶴子編『主婦論争を
読む 2』(勁草書房、1982年。初出は1972年)と、加納実紀代「社縁社会からの総撤退を」小倉利丸・大橋由香子編著『働く/働かない/フェミニズム』(青弓社、1991年。初出は1985年)を読んだ。あらためて読んでみて、やはり興味深いとともに、自分の理解が少し雑であったかもと感じた。
 武田は、「世の中のすべての人間」が、労働・生産人間としてではなく、主婦のように(と、著者は言う)「人間らしい生活」を過ごすことができるようにするべきだと言う。著者はやや挑発的に、「見方を変えれば、働かないですむこと、なまけものであることを主体的に選んで生きているこういった連中は、ひどく人間的であるとは言えはしまいか」とも言う(146頁)。
 この議論に対しては、そのような「主婦」の地位は、夫の稼ぎによって成り立っている(ということに目を向けていない)という批判があったようだ。この批判は正しいだろう。だから、労働以外での所得の源泉を、夫のサイフではなくて、普遍的な所得つまりベーシック・インカムに求めるべきだ、という風に言うことができる。「夫の支配下に置かれていたのが、国家の支配下に置かれるように見かけ上変わっただけでは?」という疑問が出てくるだろう。これに対しては、仮にそうだとしても、「その方がマシ」と応答することができる。このあたりは、キャロル・ペイトマンが、国家の政策に対しては集合的行為で異議申し立てを行うことができるが、「家庭の中」出のことについてはそれが困難である、と言っていたことを想起すればよい(Pateman, The Disorder of Women)。
 加納は、社縁社会(=職場)ではなくて、住縁社会、知縁社会(これらはそもそもは上野の言葉)で活躍するべく、社縁社会からの総撤退を行うべきだと主張する。それは「家庭にもどって家事・育児にいそしむためではもちろんない。マイホームの枠をこえた住縁・知縁のネットワークで、使用価値のある仕事をつくり出すため」である(179頁)。彼女は、撤退するのは「まず女たち」だと言う。この「まず」というのが、まさに順番でのことであり、いずれは男も含めた意味での「総撤退」を考えていたのか(他の文章とあわせると、そう読めなくもない)、それとも、事実上「女のみ」を対照として考えていたのか(素朴に読むとこちらに見える)、どちらであるかによって、彼女の議論が「普遍的ケア提供者モデル」型か、「ケア提供者等価モデル」型か(この区別は、ナンシー・フレイザーのもの)が決まるだろう。
 なお、武田の場合は、普遍的ケア提供者モデル型であるように思われる。
というわけで、日本のこのあたり(って?)の議論も、ベーシック・インカムジェンダーの関係を考えるときに、再度点検してみる必要があるのではないかと思っている(今回は、直接このテーマに取り組むために、読み直していたのではないけど)。
 ちなみに、雑誌Basic Income Studiesの最新号の特集は、ジェンダーとBI。

主婦論争を読む 2

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働く/働かない/フェミニズム―家事労働と賃労働の呪縛?! (クリティーク叢書)

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The Disorder of Women: Democracy Feminism and Political Theory

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Justice Interruptus: Critical Reflections on the

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中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察

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