(おそろしく暫定的)手段/目的の循環

 いくつかのところで、目的と手段の関係について聞かれたり、考えたりしなければならないことがありました。
 ただ、「市民が目的なのか?、民主主義が目的なのか?、そうでなければ何が目的なのか?・・・」と問われたときに、どうも自分はうまく答えられないようです。
 単に思考が定まっていないから、といわれればそれで終わりなのですが、どうしてだろうかとちょっとだけ考えてみるに、多分、自分としては、基礎づけ主義的な(?)目的論はできないのではないか(少なくとも自分は)、という気がしています。
 つまり、「市民像」(シティズンシップ)も、「集合的問題解決」も、「秩序」も、いずれもが他の要素との関係で、目的ともなり手段ともなる、というわけです。
 そして、それぞれの手段/目的連関のところで、どの「目的」が妥当なのか、その目的のための「手段」として何が妥当なのか、ということが検討すべき課題ということになります。


・〔手段としての〕市民像(権利中心、義務中心(倫理的義務、法的義務)、折衷その他・・・)・・・問題解決の
   ↓
・〔目的としての〕集合的問題解決(君主制、寡頭制、民主主義、アーキテクチャ、市場・・・)
   +
 〔手段としての〕集合的問題解決・・・どのような秩序を作るべきか?
   ↓
・〔目的としての〕秩序(どのように定義する??)
   +
 〔手段としての〕秩序・・・市民形成(「育て上げるために」)のためにどのような秩序であるべきか?
   ↓
・〔目的としての〕市民像 
   +
 〔手段としての〕市民像
   ↓
  以下繰り返し・・・・・・・


なんかあんまりうまくいってない感じがします。たとえば、問題解決と秩序の関係とか、「問題解決の手段としての市民像」とか、それでええんかいなほんまにという気もします。が、そこはまあそれ、超暫定的なメモということでお許しを。
あと、こういうラインで考えることはあまり政治「哲学」的ではないのだろうと思います。政治哲学であれば、達成すべき価値の正当化の論理を組み立てることが重要でしょうし、そうなると、その「達成すべき価値」は基底的な目的でもあるということになるだろうからです。
ただ、政治哲学といっても、比較的純粋に概念の検討に徹する場合は、基底的な目的は何かというようなことを論じなくてもよいのかもしれません。さしあたり、ある概念を取り出し、その概念の論じ方の論理的問題を検討するということであれば、「その概念が「目的」なのか?」という問いは、ひとまず括弧入れしておいてよいでしょうから。