・北田暁大(2007)「分野別研究動向(理論)」『社会学評論』第58巻第1号。
「私見では、2001-2003年を含む90年代半ば以降の日本社会学を見ていく場合、「規範」化(あるいは批判化、政治化)とともに「方法」化というアスペクトが重要な意味を持っている(80頁)。」
なお、拙著にも言及していただいている。感謝感謝。
ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)
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グローバル化と再帰的近代化がローカルなアイデンティティの希求をもたらすが、その希求は、多元的な秩序の枠内に収まらず、「絶対的なものを奉じる」「反転した方向」をももたらし得る。これにどう対応するかが問題になるが、鈴木氏によれば、人々が「政治」に従事する可能性を強調するギデンズなどは、「政治的目的」の観点から議論しており、いわば「行き止まりの果ての政治的決断」(239頁)にとどまっている。というのも、しばしば現実に生じているのは、「原理主義同士の「衝突」や、武力による「民主化」」(239頁)だからである。
再帰的近代化の帰結が一義的ではないことについては、僕もそう考えている。ただ、個人的関心としては、再帰的近代化と「反省」の関連づけが「民主主義や政治」の問題を経由して行われていることを、「政治的目的」「政治的決断」と称してすませてよいものかどうか。
第一に、それを「政治的決断」と呼んでしまうと、「国家」を呼び戻すことも少なくとも同じ程度には「政治的決断」だということになるだろう。つまり、複数の選択肢・シナリオがありうる中で、特定の(政治の)選択肢・シナリオを選ぶことは、どのみち「決断」「目的」的なのであって、そのこと自体をもって批判する理由にはならないのではないか。ただ、その「決断」の筋道をより丁寧に論じることは必要だが。
第二に、ギデンズらが、民主主義や政治を語ることが単なる「政治的目的」なのかどうか、という点も問題である。それこそ、ベックの「再帰性」と「反省(省察)」との区別ではないが、「政治」や「民主主義」が持ち出されるのは、人々が「主体的に」それらに関わるようになるという点だけではなくて(なのか、「ではなくて」なのかも問題だが)、不可避的に関わらざるを得ない、という点が含まれているのではないだろうか(実証的に正しいかどうかは別だが)。そうだとすると、樫村氏の言うような、条件整備の話が重要になってもくるのだが。
とは言ってみたものの、再帰的近代化と「政治」とを結びつける社会理論ならぬ、そしてもちろん単なる「政治的決断」でもない、「政治」理論が必要であるのは確かで、その「政治」理論という点で、ギデンズなどの議論はややおおざっぱではあるかもしれない。僕のこれまで扱った範囲では、ムフの近代論やらM. Warrenなどが取り組んでいるということになるのだが、そのあたりの議論を以前の話の繰り返しではない形でどうやっていくか・・・うーむ、自分のアタマの中はちっとも進歩していないな。