- 作者: 大森秀臣
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2006/06/01
- メディア: 単行本
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「法」と「政治」の相互関係を理論化しようとする意欲作。著者は、リベラリズムの「公私分離」を問題視し、「私的なもの」と「公的なもの」との「結びつき」を主張し、その方策としてマイケルマンとハーバーマスから再構成した「審議―参加型共和主義」の意義を主張する。問題関心が重なるところも多く、大変興味深く読んだ。
『正義の論理』や『リベラリズムとは何か』における最近の盛山和夫さんのリベラリズム/正義論における「政治」の位置づけについての指摘とも相俟って、今後、リベラリズム/正義論と「政治」との関係という問題が(C・ムフなどの指摘後)あらためて注目されるようになるのかな、などとも思う。政治学者としては、興味深いところ。
そういうわけで、全体としてとても興味深い本だったのだが、あえてする僕の疑問は、次の二つ。
第一は、著者はリベラリズムの「公私分離」を批判するあまり、「審議―参加型共和主義」における「公私の結びつき」の側面を強調しすぎているのではないか、というもの。確かに、ハーバーマスがその討議モデルにおいて「私的な」ものをアプリオリに排除しなくなったとはいえ、「公私の結びつき」の面を強調しすぎると、今度はいわゆる「集団理論」「多元主義論」的な政治観との区別がつきにくくなるように思われる。ハーバーマスが、「妥当性」にこだわっているのは、やはり公私の区別をつけようとしているからではないだろうか。
第二は、人々がどうして審議に参加すると言えるのか、という点についての考察も必要ではないか、というもの。人々が政治的審議に参加することで、法の「生成」「公共的正統化」が達成されるのは確かであろう。ところで、この議論では、あくまで「人々が参加する」ことが前提である。しかし、実際には、人々はそれほど簡単には参加しないように思われる。いくら「自己統治」が大切だと言っても、だからといって人々は、常に「私的な」問題を審議するとは限らない。だとしたら、今日の共和主義論は、「ミーファースト」な人々が、どのようにして、どのような場合に審議に参加するのか、という点についての考察を含む必要があるのではないだろうか。