- 作者: 小田中直樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/06
- メディア: 新書
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とくに、いかに他者性、主体の構築性、網の目の権力などが指摘されようとも、それでも「主体性」はギリギリ確保されているのではないかという69頁以降の指摘や、「他者啓蒙」と「動員」との間に「すきま」(127頁)を見出そうとする議論、さらには個人の自律の要件に「懐疑精神」と「コミュニケーション能力」を挙げる点(180頁)などに、ギリギリのところを通りつつ、「個人の自律」を擁護しようとする著者の姿勢がよく現れている。
僕も、つい先日書いた、齋藤純一『自由』(岩波書店、2005年)への書評(『思想』第984号、2006年)で、「自由」を「私たちの〈間〉」に位置づけようとしても、「一種の主権性・主体性が〈間〉に先行せざるを得ないのではないか」と書いたことがある。「主体」の権力性を問題視することは、「主体」を丸ごと否定することを意味することになるのか、そんなことをずっと気にかけている。だから、著者の議論も、大変納得のいくものであった
とくに、他者啓蒙と動員・パターナリズムとの関係についての議論は、大変重要な問題を提起していると思う。僕が少しかじっていた現代ドイツの民主主義論者の中にも、各人の選好をそのまま尊重する民主主義(匿名投票など)ではなく、あえて「選好介入主義」的な民主主義を構想すべきだという議論があったことを思い出した*1。パターナリズムをそのまま肯定するわけにもいかないが、かといってそれを恐れるあまり個人のありかたを丸ごと肯定するだけでよいのか、そのような問題意識は、現在においてこそ、切実な問題であるように思う。
ただ、問題は、そのように納得しつつも、「ポスト近代主義」の影響を受けてしまった後では、どこかで「でも、そうだろうか?」と問いかけてくる自分もいる、ということである。「主体性はやはりあるのではないか」と書きつつ、「とはいえ、それは主体性なのだろうか」と、すぐ疑問符をつけてしまうところが、ある。自律を批判する議論には「やはり自律だ」と言いたくなり、自律を擁護する議論については「しかし…」と留保をつけたくなってしまう、と言い換えてもよいのだが。そのような「座りの悪さ」に耐えつつ、「ポストモダン・シニシズム」に陥らないように、粘り強く「自律」の問題を考えていくことが求められている、としか言いようがないのだろう。