「官から民へ」について

 ところで、この本全体の趣旨かどうかはきちんと読まないと判断できないので、一応上記の本とは切り離された話題としてお読みいただきたいのですが、「市場化」の拡大とNPOなどの社会活動の拡大とは両立するものなのでしょうか?アメリカみたいな形では両立する、ということなのでしょうか?
 最近の流れでは、境界線が、「官」と「民」との間に引かれることが多く、この場合には、「官」が批判され、それに対抗する「民」、という構図となります。この「民」の中に「市場」(労働)も狭義の「市民社会」(労働以外の諸活動の場)も含まれることになります。
 しかし、これとは別の境界線の引き方も可能です。実際、今では古典的となったハーバーマスの「システム」と「生活世界」では、「官+市場」=「システム」と「生活世界」との間に境界線が引かれます。「官」が「権力」の論理で「生活世界」を侵食しすぎることを、ハーバーマスは「生活世界の植民地化」と呼んで批判しますが、同じ「植民地化」の脅威は「システム」のもう一つのサブシステムである「市場」についても当てはまります。ハーバーマス自身の狙いは、旧来的なマルクス主義のような市場だけでなく、国家もまた「植民地化」する恐れがあることを明らかにすることにあったと考えられます。しかし、彼は、「市場」の恐れについても、これを度外視するわけではありません。
 「官から民へ」の掛け声の下で、このようなハーバーマス的な「システム」と「生活世界」の境界線の論理が、十分に考慮されなくなっているように思われます。とかく、日本型経営では、終身雇用・年功賃金の下で、(男性)社員はリスクを負うこともなく、ぬくぬくとすごしていた、と描かれがちです。しかし、その(男性)社員も、何はさておき「仕事第一」の生活をおくっていたという意味では、「市場」にどっぷりと浸かって生きてきた/生きざるを得なかったものと思われます。新たなリスクを引き受ける市場人の像は、浸かり方の内容は異なるとはいえ、やはり同様に人々を、あらためてどっぷりと「市場」に浸し続けることになるとも言えるのではないでしょうか?そういう状態は僕にはあまり望ましい状態には思えませんが、それはさておくとしても、そのような市場のリスクに曝され続ける人間が、市場以外での多様な社会活動にもエネルギーを注ぎ込むことができるのか、疑問に思うところです。
 「官」だけでなく、市場をも相対化できる社会の可能性を考えてみるほうが、少なくとも僕の性には合っているような気がします。