引き続き(といっても下巻ですが)下記の本から、中河伸俊「『どのように』と『なに』の往還:エンピリカルな構築主義への招待」を読む。「一日一章しか読めないのか?」とか、突っ込まないように。
- 作者: 盛山和夫,野宮大志郎,土場学,織田輝哉
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2005/08/01
- メディア: 単行本
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・・・まず、エンピリカルな構築主義が原因論、つまり「なぜ(why)」の問いを採らない理由を説明したい。それは、一言でいえば、エンピリカルであるため、言い換えれば、人びとが携わって紡ぎ出すさまざまな活動を、その活動(の文脈内でのレリヴァンス)に即して記述し考察するためである(175頁)
と、ひとまず朝食にて、中断。
(再開)
では、なぜ「なぜ」の問いに導かれた因果モデルは、「その活動に即して」いないのか。著者の回答は次の叙述に示されていると思われます。
いいかえれば、因果モデルにおいて独立変数として位置付けられる先行の行為や出来事や「心理」や社会の「状態」は、後続の行為の原因ではなく、後続の行為や出来事を有意味(理解可能)なものとして成り立たせる推論作業の中で、人びとが使うレファレント(参照の対象)にすぎない。ミルズの動機の語彙論が先駆的に示唆したように、[先行の行いや状態→後続の行い]という因果関係ではなく、[後続の行い⇒先行の行いや状態]という方向での言及関係が、人びとの活動のつながりの基本線なのである。(181頁)
(さらに)言い換えれば、人びとが行為の中で「何を原因と見なすか(構築するか)?」を研究する、ということになるでしょうか。独立変数こそが実は従属変数、というわけです(多分)。
なるほど、と思いつつ、僕が考えたのは次のようなことです。質的研究で「なぜ」問題に取り組んでいる場合というのは、たいていの場合、(どこまで方法論として意識しているかは別として)大なり小なり「どのように」問題をも追っかけているのではないでしょうか。例えば、「アナリティック・ナラティブ」と呼ばれる方法では、因果関係のモデルをある程度演繹的に組み立てつつ、そのモデルに沿った分析だけではなく、その事例の経緯をある程度詳細にトレースします。トレースという作業を行えば、先ほど述べたようにどこまで意識しているかどうかは別として、「アクター(当事者)たちが原因を原因と見なす」プロセスを描き出すことに、結果的にはなっているのではないか(少なくともそのような叙述部分を含む)と思われます。とすると、著者の示唆は、少なくとも質的研究に従事する限り*2、方法論に敏感であれば、リサーチ・クエスチョンを「なぜ」だけに特化することはできない、ということになるのではないでしょうか。
でも最後は(またも)政治学の話に戻してしまうわけですが、日本の政治学でも、この手の問題系についてもっと相互に議論していったほうがよいのではないかと痛感します。とくに計量・数理系でない人たちの中からも。