ふと

信州に行ってきました。僕の両親も一緒での旅行です。
安曇野ちひろ美術館に行ってきました。
http://www.chihiro.jp/azumino/top.htm
僕は、格段にちひろの絵が好きとかいうわけではありません。ただ、僕の両親(とくに母親)が好きなのです。ですから、小さいころから見慣れているといえば見慣れています。
肝心の絵のほうは、子どもが外の池で遊びたい、というのでちょっとしか見れませんでした。
でも、いろいろ思うところはありました。とくに、とても恵まれた環境に育った彼女が(彼女が戦前通っていた女学校は、公立ではありますが、10日以上の日程での九州への修学旅行、夏には信州へ登山、冬にはスキー、いちはやく女性用のプールを整備などなど、大変「ブルジョワな」学校だったみたいです)、戦後日本共産党(以下、共産党)に入党したことについて、です。
 日本の敗戦後すぐに、共産党の演説会か何かに行き、戦争への反対の姿勢に共感して党員になることを決めた、とか。
 今では、非転向の幹部の多くが獄中と海外にいたことの及ぼした影響について、いろいろ言われるものの、僕はとやかく言えるほどの認識を持っておりません。ただ、当時の共産党の知的権威のソースは、やはり、政治勢力の中で戦争中に唯一反戦をつらぬいた、ということにあったのだなあ、とあらためて実感した次第です。 彼女の絵が幅広い人々の支持を得たのも、やはり「平和」のメッセージがリアリティと共感を持って受け止められたからなのでしょう。
 翻って、現在では、このような平和のリアリティはあまり共有されなくなってきているのでしょうか。「平和」「理想」ではあるが「現実的」ではない、と考えられることが多いように思います。丸山眞男氏が「現実主義の陥穽」という小文で述べているように、「現実」が「既成事実」と同一視されがちな日本では、もっともなことかもしれません。でも、「平和」が本当に「リアリティ」のないものかどうかは、真剣に考慮してもよいことでしょう。
 このように考えた場合、最近の(少なくとも二人の)憲法学者たちの憲法(9条)解釈が注目されます。一つは、長谷部恭男さんの『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書です。

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

 この本の中で、長谷部さんは、9条を「合理的自己拘束」と見る見解を打ち出しています。「文献解題」には、ホメロスの『オデュッセイア』しか挙げられていませんが、恐らくそれ以外にJ・エルスターの議論が念頭に置かれていることは間違いないでしょう。
 実際、もう一人の憲法学者で友人でもある愛敬浩二さんは、そのエルスターの議論を引き取りながら硬性憲法を「プリコミット」と解することについて、最近のいくつかの論考で検討しています。今手元にないのですが、手に入りやすいのは、下記の本に所収の論文でしょうね。あと、『社会科学研究』という学術雑誌の最新号にも論文が載っておりますが、そちらは図書館などで。
公共哲学〈12〉法律から考える公共性

公共哲学〈12〉法律から考える公共性

 愛敬さんは、「憲法を変えられない」ことが問題視されることが多いが、実は「変えられないことには意義がある」と論じようとしています。
 もちろん二人には違いもあります。長谷部さんは、「自衛のための何らかの実力組織を保持することを完全には否定しない」(160頁)立場(彼は「穏和な平和主義」と呼ぶ)を支持し、この立場と9条維持とは両立すると述べています。むしろ、彼は「絶対平和主義」を「善き生き方」の次元の問題であって、これを政策化することは(リベラルな)「立憲主義」と相容れない、と主張します(166頁以下)。これに対して、(手元にこの問題についての愛敬さんの論考がないので推測になってしまいますが)愛敬さんのほうはこのような意味での「実力組織」に対しても、少なくとも長谷部さんよりは厳しいスタンスなのではないか、と思われます。
 ただ、ここでは二人の違いを強調することが主題ではなく(実際、愛敬さんのものをきちんと踏まえないで比較検討も行なえませんから、そんなことをするつもりはありません)、最近の憲法学において、(「絶対」かどうかはともかくとして)憲法の「平和」条項に、rationalという意味での「合理性」を読み込もうとする解釈が現れてきていることにだけ注目しておきたいと思います。このような解釈が平和の「リアリティ」を取り戻すことに貢献できるのかどうか、注目してゆきたいところです。
 なんだか話が新聞コラム的に横滑りしてしまいましたが、体調もよくないのでこのあたりで。