逃避?

 連休中にヒマを見つけながら(「ヒマ」などあるのか?と言われそうですが、「子どもと部屋の中で一緒に時間を共有しながら読書する」という風に理解してください。「机に向かって研究」というわけには、良くも悪くも(?)、いかないのです)、竹内 洋『教養主義の没落:変わりゆくエリート学生文化』中公新書、2003年を読みました。実は僕は、この有名な著者の本を読むのは初めてでした。教養のない自分としては、教養主義マルクス主義との関係とか、岩波書店の果たした役割とか、教養主義エリートは一種の成り上がりでもあるといった記述など、よくご存知の方には当たり前のことかもしれませんが、結構面白く読めました。思い起こしてみれば、自分も、学生のころ、『世界』や『中央公論』などの「総合雑誌」と称される雑誌はほとんど読んでいませんでしたね(今でも、そうれほど熱心には読んでいないのですが・・・)。『ジャンプ』か『マガジン』は、毎週欠かさず読んでいましたけども。
 そのあと、内田 樹・平川克美『東京ファイティングキッズ』柏書房、2004年の、読み残していた最後のほうを読みました。内田さんの「お母さん」役割と「学界サクセス」とのトレードオフ(つまり、前者に専念すると後者ができなくなる、というか、実際、どうでもよくなる)という実体験発の発言(267-268頁)は、実感としてもとてもよくわかりました。などと、何だかんだいって、結構、妻にいろいろ任せてしまう僕が言える身分ではないのですが。もっとも、『ためらいの倫理学』以来の内田さんのフェミニズムに対する態度は、ちと厳しすぎるのではないか、とも思います。上記の部分も、議論の本旨は「女性の男性化」を目指す(とされる)「アメリカン・フェミニズム」への批判、ということでした(「アメリカン」が批判されているだけ、とも言えますが)。フェミニズムの問題点についての内田さんの指摘はよく分かる部分も多いです。でもその上で、もう少し共感的なスタンスを取ることもできるように思えます。もっとも、内田さんは、あえて「偽悪」的なスタンスを取っているように見えることもあるし、そうでないように見えるときもあるし、どう見ればよいのか難しいところです。
 さらに、そのあと、さらに懲りずに、鶴見俊輔上野千鶴子小熊英二『戦争が遺したもの:鶴見俊輔に戦後世代が聞く』新曜社、2004年、にも手を出し始めました。またも「教養」のなさを披露してしまうのですが、僕が鶴見さんに興味を持ったのは、それこそ、小熊さんの『<民主>と<愛国>』新曜社、がきっかけでした。それで、鶴見俊輔というのはすごい人だなあ、と思い、何か読もうと思って、少し回想か何かを読んだのですが長続きせず、今に至っています。今回の本も、小熊さんがインタビューする鶴見さんですから、結局、「小熊経由の鶴見」しか見ていない、ということになります。それも「世代」のせいなのでしょうか。
 と、書きながら、一番強く実感したのは、「ああ、やっぱり読書に逃避しているなあ」ということでした・・・。