LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)
- 作者: 森山至貴
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/03/06
- メディア: 新書
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- 作者: 葛谷彩,芝崎厚士
- 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
- 発売日: 2018/12/10
- メディア: 単行本
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LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)
下記の要領で、第20回社会政治研究会を開催します。今回は運営委員の一人の上村さんを含め、社会学者2名の報告です。
〇日時:2018年11月30日(金)18:00~20:10
〇会場:名古屋大学全学教育棟北棟(情報学部棟)4階406(多目的講義室)
(www.i.nagoya-u.ac.jp/access左下の「情報学部・全学教育棟」北側玄関から4階に上がり、エレベーターを降りて左手へお進み下さい)
〇報告
1)上村泰裕(名古屋大学)「福祉国家のワークライフバランス効果――日本と台湾の比較から考える」
2)木田勇輔(椙山女学園大学)「なぜ名古屋でポピュリスト政治が生じたのか?――グローバルな動向とローカルな文脈」
※飛び入り参加も歓迎いたしますが、準備の都合上、事前に上村(kamimura[at]nagoya-u.jp)まで御一報いただければ幸いです。なお、終了後の懇親会もぜひ御予定下さい。
【運営委員】大岡頼光(中京大学)/上村泰裕(名古屋大学)/田村哲樹(名古屋大学)/山岸敬和(南山大学)
以前に、訳者の玉手慎太郎さんから、ヤン・エルスター(玉手訳)『酸っぱい葡萄――合理性の転覆について』勁草書房、2018年、を頂いておりました。どうもありがとうございます。こちらでのご紹介が遅れてしまいました。申し訳ないです。エルスターの代表作の貴重な翻訳が、ついに刊行です。
著者の井手英策さんから『幸福の増税論――財政はだれのために』(岩波新書、2018年)を頂きました。どうもありがとうございます。タイトルはいささか挑発的なものに見えますが、そうであるがゆえに井手さんの考えが詰まっているのだろうと思います。
著者の北田暁大さんと筒井淳也さんから、岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣、2018年、を頂きました。どうもありがとうございます。待望の本です。読了しましたが、感想はいずれまた。
北田さんから『社会制作の方法』(勁草書房、2018年)を頂いた。北田さんが1998年から2010年までの間に書かれた、主に理論的な論文をまとめ直したもの。それらの考察を通じて、現在の北田さんがどのような地点に到達したかということが、ポイントになる。(なお、以下の叙述は、本書の第1部、第2部は読まずに書かれています(以前に呼んだことがある論考は含まれているけれど)恐らく本当は、「実在」についての話は特に第1部を読んでから書くべきである・・・と認識しております)。
社会制作の方法: 社会は社会を創る、でもいかにして? (けいそうブックス)
その到達点は、「序 『社会学の根本問題』と社会問題の社会学」に書かれている。ここでは、社会学におけるwhatとhowの区別という視点が導入される。whatは、社会がどのような状態であるのかという(おそらく)経験的な問題とともに、どのような状態である「べき」かという規範的な問題を含んでいる(と思われるので、私はこれをwhatだけで言い表すことが適切なのかどうかについては、やや疑問を持っている。政治理論ならば、oughtという区別も必要だと言うだろう)。これに対して、howは、社会状態がどうである(べき)かという問いを「括弧入れ」(というのはつまり、直接に問わずにおくということ)した上で、どのように当該社会状態が成り立つに至ったかという問題を扱う。howの問題に取り組む研究は、その研究対象の社会状態がどのようなものであるかはもちろん、どのようなものであるべきかを検討することなく(括弧に入れて)、どのようにしてそこに至ったかのプロセスを記述する。
こうしたwhat(+ought)とhowとは、パーソンズ以後に分岐したとされる。そこで、この本『社会制作の方法』の課題は、もう一度その分岐を克服するべく、「そうしたhowの方法にこだわる経験科学であるからこそいえるwhatのあり方」を模索することである(8頁)。
上記で言われていることが最も直接的に取り組まれているのは、第3部、特に第9章「社会の討議」、第10章「社会の人権」だろうと思う。この二つの章では、「討議(熟議)」や「人権」といった規範的(ought)な概念が、規範的政治哲学ののようなやり方でその意義を「正当化」されるのではなく、それらは機能分化した社会において機能的に不可欠な要素であるといった形で記述されつつ擁護される。つまり、それらは、単になんらかの根拠から「望ましい」ものなのではなく、(おそらくこのような言い方は慎重に回避されていたとは思うが、わかりやすい表現をあえて用いると)「社会」にとって(人間にとっての「望ましさ」云々にかかわらず)不可避的に必要なものなのだ、という形で、ある種の「正当化」が試みられている。それが規範的な正当化とは異なるのは、「現存しない(または十分な形では現存しない)かもしれないけれども、望ましいもの」として「正当化」されるのではなく、「実は現存しており、それは単に人々にとって望ましいからではなく、『社会』自体が必要としているのだ」と言った形で「正当化」されるからである。
ちなみに、第9章では、私の討議(熟議)擁護論とは異なるものとして、この「正当化」論が提示されているが、実は(?)私自身も、こういう「社会にとって必要なのだ」論法は嫌いではないというか、むしろこれを規範的政治哲学とは異なる「正当化」のやり方として位置づけることができないかと考えている。それで思い出したのは、かつて拙著『国家・政治・市民社会――クラウス・オッフェの政治理論』(青木書店、2002年)で、オッフェの1989年の論文を参照したことである(同書、第9章)。私は、この論文でのオッフェの「複雑な社会とその部分システムとは、『責任倫理的な』大衆の志向性への……顕著な機能的要請を示す」という言明などを参照して、「責任倫理」は、道徳的・倫理的規範として望ましいだけではなく、社会システムにとっての機能的観点からも必要なものとして論じられていることを述べた(田村 2002: 216-217)。
これが本当に、規範的政治哲学とは異なる「正当化」の論法なのかどうかは、なお検討が必要なのであろう。筆者が「あとがき」で、「実は曖昧なままに残している『機能主義的正当化』については、別の形で引き続き考察を進めていくこととしたい」(342頁)と述べているのも、このようなことを意識しているからではないかと思われる(確証はないけれど)。今あらためて「ああ、そうか」と思ったのは、北田さんが『責任と正義』でこの拙著について好意的なコメントを書いて下さったことである。それは、上記のようなこと、つまり「機能主義的正当化」的な論法を、オッフェないしそれを参照した私が拙著で書いていたからだろう(と思う)。