学風

 歳をとったせいか、最近「学風」というものについて、考える/考えざるを得ない機会がよくある。学風などいらないという向きもあるかもしれない(どこの大学・機関でも同じように研究がなされ、教育が提供されるべき)が、僕はそうは思わない。やはり、大学/学部ごとの独自性みたいなものはあった方がよいと思う。なぜなら、そういう独自性からありきたりではない研究も生まれるのではないか、と思うから。
 しかし、「学風」というのはどのようにすれば生まれるのだろうか。いくつか考えるところを列挙してみたい。


1)同じような理論、アプローチ、方法、あるいは「世界観」を持つ研究者を集める。
 ある意味、これは最もわかりやすい。そのような研究者たちを集めることができれば、間違いなく学風は生まれるだろう。
 しかし、このやり方で注意すべきこともある。第一に、質よりも「同じ」を重視してしまうかもしれず、結果的に、同じような人が集まっているけれどもクオリティは低い、となってしまう恐れがあること。第二に、(同じことかもしれないけれど)学風はあるけれども、学界の他の人々から乖離し、孤立化/周辺化してしまう恐れもあること。
 恐らくこれらの危険性を避けるためには、理論・アプローチ・方法・世界観を共有しない研究者たちにもそれなりに評価されているような人々が集まればよい。しかし、これは言うは易く行うは難い。


2)構成員間での相互参照を増やす。
 あらかじめ諸々のことを共有していなくても、構成員間でお互いの研究を意識する機会が増えれば、そのことが互いの業績の相互参照にもつながり、結果的に「学風」を産み出すかもしれない。
 よく考えれば、学風というものは、まさに「風」もとい「空気」のようなものであって、ふわふわとしてつかみどころがない。そのような者がどのようにしてある程度形を持ったものとして生まれるのかと言えば、要するに、各自が自分の研究を行う/論文・本を書く時に、互いの研究を意識・参照することによって、ではないだろうか。お互いの研究を大なり小なり参照しあう研究者の間には、少なくとも「参照し合う」という一点において共通性が生まれる。
 相互参照を増やすにはどうすればよいのだろうか。これには、月並みかつ地道な方法しかないのではないだろうか。要するに、お互いが書いたものを献本し合う、組織内の研究会やセミナーでお互いの研究を聴く機会を増やす、懇親の場で話す機会を増やす(必ずしも研究の話だけとは限らないが、しかし研究の話も大なり小なり出てくるはず)、といったことを通じて、ということである。「それくらいのこと」と思うかもしれない。しかし、これが意外とできないことが多い。研究会やセミナーといっても、忙しそうにしている同僚たちになかなか新しいお誘いをすることは気が引ける。週末の学外での研究会等であればよいが、平日に学内で開催されるものには、なぜかあえて顔を出す気がしない、ということも、実は結構考えられる。業績を送りあうと言っても、本などの場合はお金がかかる。雑誌論文もコピーは面倒だ、と思うかもしれない(まあ、添付ファイルで送ればよいのかもしれないけれど)。懇親の場でさえ、誰もが出てくるとは限らない。つまり、当たり前っぽいことも、相当意識的に行わなければできないのだ。


3)それなりの長期間在職する同僚を増やす
【※これについては後ほど書きます】