白川 2010

  • 白川俊介「分断された社会における社会的連帯の源泉をめぐって――リベラル・ナショナリズム論を手がかりに」『政治思想研究』第10号、2010年、


社会的連帯の解体に対して、熟議を通じた連帯形成ではなく、「ナショナリティ」をベースとしたそれを擁護しようとする論文。福祉国家と民主主義に関わるテーマでの論争的な(?)問題提起を、まずは素直に歓迎したいと思う。この種の議論が、日本でも、もっとなされるようになれば、僕としても大変うれしい。
まだ、ざっと読んだだけなので、以下に書いていることは暫定的なメモとして受け取っていただきたいということを明記(!)したうえで、いくつか書く。


個人的には、ナショナルなものに適切に熟議民主主義の枠組が作用していれば、そうでないナショナルなものよりはよい連帯が生まれるだろうと思っている。その限りでは、ナショナルなものと熟議とは相反しない(なお、「相反する」と白川さんあるいはミラーが言っているわけではない。念のため)。
また、「土着語」でないと、つまり言語が共有されていないと、ちゃんと熟議できないという点も、実際にイヤというほど痛感しているので(「ので」というつなぎは問題かもしれないが)、そうだろうなと思う。だから、異なる言語同士の人々で、さらにマジョリティ/マイノリティの違いが明確である時に、両者で熟議を行うことは非常に難しいだろう。
その上で論点は、とはいえ、そういう「別の人たち」を排除しないでやっていくためには、どういう仕掛けが必要なのか、ということだろう。ハーバーマスが、「他者の包摂」について、かなり厳格な意味での熟議・ディスクルスを通じて自己から距離をとることを強調しているのも、そうしなければ、結局、マジョリティの方が勝ってしまうと考えているからだろう。
リベラル・ナショナリストが「事実」から出発すること自体は、おかしなことではないと思う。でも、ネーションが事実として多くの人に共有されてきた/いることが「事実」だとしても、特定のネーションだけだったつもりのところにいろいろな人が混じるようになってきていることも「事実」なのである。どちらの「事実」を重く見るのか、重く見るときに「安定性」の確保が基準でよいのか、
仮にそうだとしても多元性の中で「安定性」を確保するという構えで考えることもできるのではないか・・・といったことは、やっぱり問題になりそうな気がする。
月並みに言ってしまうと、言葉も文化も違う他者と一緒にやっていくのは、面倒くさいし、快適ではないかもしれないし、もしかしたら今までのやり方ではうまくいかないことも出てくるかもしれないが、そこで何とかしていくことを考えるしかないのではないかな、ということになるだろうか。
たとえ、土着語の利用可能性では程度の違いがあっても、だからといって議論の相手にされないのと、ちゃんと相手にしてくれるのとでは(あるいは土着語使用者の方が相手にするべく努力するのとでは)、全く異なると思う。アイリス・ヤングのような人々も含めて熟議民主主義が想定しているのは、後者のような状況だろう。
とはいえ、話を戻すと、そのありかたが反省的に問い直される可能性に開かれたreflexiveなナショナリティならば、「(熟議)民主主義かナショナリティか」という二者択一にはならないだろう。熟議を通じてマジョリティ文化は恐らくは一定の修正を受けることになるだろうし、そうして修正されたマジョリティ文化ならばマイノリティも受け入れることができるかもしれない。まあ、これは、必然とは言えないけれど。


以上はちょっと思いつき的なので申し訳ないけれども、今後も、政治思想・政治哲学・政治理論の観点から、こういう議論がいろいろとなされていくことを期待したい。


なお、この辺の話に絡む拙稿は、以下のようなものがある。