「対話」の難しさ

というようなことは、前からぼんやりと考えていて、相変わらず、ぼんやりしているのだけれど、ちょっとメモしてみる。
 ある種のポストモダニズム的な考え方によると、「同一性」と「差異」は切り離すことができない。かつ、そうやって生み出される差異は、常に既に「排除」されるものである。
 この考え方に依拠すると、「私はこういう立場だ」と述べることは、同時に、「そうではない違う立場」を設定することである。そして、「そうではない立場」は、単に「違う」だけではなく、「間違っている」「ダメな議論」などとして「排除」されるべきものである。
 自分はポストモダニストだという自覚のない研究者でも、しばしば、ポストモダニストのロジックにしっかりはまっていたりする。実証主義の立場に立つと自覚する研究者は、しばしば、「データ」や「事実」に基づいていない研究を、「違う」タイプの研究として見ることができない。歴史を研究していると自覚している研究者は、しばしば、「歴史」をおろそかにしている研究を、「違う」タイプの(しかし同等な)研究として見ることができない。「理論研究」と自覚する研究者は、しばしば、詳細な観察とベタな記述だけの(と見える)研究を、「違う」タイプの研究として見ることができない。現実への介入をもってこそ研究者であると自覚する研究者は、しばしば、データやテキストの処理や解釈だけを行っているだけ(と見える)研究を、「違う」タイプの研究として見ることができない。
 他にもいろいろあるだろうけど(そして、上記の例示が不適切である/誤解に基づいている、という批判もあるだろうけど)、問題にしたいのは、なぜ研究者たちは、「違う」タイプの研究を単に「違う」タイプとして見ることができず、どこか自分のタイプよりも、劣ったものとして見ようとしてしまうのだろうか、ということである。自分の立場と異なるものを、「異なるものには、異なるものなりの理屈があるのだろう」と考えずに、自分の立場をベースにして評価してしまう。しかし、自分の立場をベースにして異なるものを評価すれば、「ダメ」になるのは、ある意味で当然である。
 かつて、マルクス主義者が「それはマルクス主義ではない」と言えば、また、ウェーバー研究者が「そんなことはウェーバーは言っていない」と言えば、かなり致命的な「批判」となった(であろう)時代があった。フェミニズムでも、「それはフェミニズムではない」的な言い方は、ある程度あっただろう。
 巨大な諸教義は、かつての影響力を失った。しかし、依然として、それぞれの「立場」に依拠して、そうでない「立場」を「それは間違っている」と批判し続けるのだとすれば、かつてのマルクス主義者やその他のあらゆる主義者たちを批判することはできないだろう。 いや、かつての主義者たちは「主義」だったからダメなのだ、ということもあり得る。しかし、他者の見解を、自己の見解の「正しさ」を見直すことなく評価するならば、それはやはり「主義」としか言いようがないのではないだろうか。
 もっとも、「主義」的なものが一切必要ないとは思わない。つまり、それぞれの「立場」がどういう「立場」なのかを、できるだけはっきりさせるような試みは、それぞれの「立場」の中で模索され続ける必要があるだろう。もちろん、そのことは、不可避的に「他者」を生み出すことになる。でも、そのことがわかっていれば、「他者」を「違い」として見る努力を忘れないで済むのではないだろうか。楽観に過ぎる、と言われればそれまでだけど、それでも、「厳しい批判」が究極的には「あれは間違っている」「ダメである」という言明によって表象されてしまうことがないように、学問的な批判の方法を模索していきたいと思っている。