Gursozlu 2009

  • Fuat Gursozlu , "Debate: Agonism and Deliberation--Recognizing Difference," The Journal of Political Philosophy, Vol. 17, No. 3, 2009.

(Guersoezlueファミリーネームのu,o, uはウムラウト。ドイツ人?らしくはない気がするけど)

 熟議民主主義と闘技民主主義を結び付けようとする試み(特に取り上げられているのは、Andrew Knopsの同誌掲載の2007年の論文)は、両者の根本的な違いを理解できていない、と主張する論文(というか「debate」)。なんとなく、闘技民主主義に好意的に見えるが、著者の意図は、熟議民主主義を批判・否定することではなく、あくまで両者が民主主義の異なる側面に焦点を当てていることを理解すること(そうすれば、安易に結び付けようとか考えないはず)にあるようだ。しかし、民主的な「共通性の構成」「民主的な市民の構成」を闘技的にどう実現できるのか、がやっぱり問題なのではと思ってしまう僕は、バイアスがかかっているかもしれない。他方、著者は、ディスクルス/ディスコースが公共圏における抗争を免れるわけではないという考え方(Pathen Markellが「公的討論の反省性」と呼び、ハーバーマスの討議民主主義の特徴の一つと考えているもの。まーける論文は昔読んだが…)には共感的である(が、それを闘技と重ねることはできない(ヴィラの議論ならばあり得るが)、と言うわけだが)。最後に、ドライゼックは、熟議と闘技の違いをよく理解していると評価されている(が、彼が「違い」だけにとどまらず、後者を批判していることはどう見るのかなという気も)。


(もう一度)読むかどうかわからないが、Markell論文。

  • Patchen Markell, "Contesting Consensus: Rereading Habermas on the Public Sphere," Constellations, 3, 1997, pp. 377-399.