Bradshaw, 2008

Rebecca Kingston and Leonard Ferry eds., Bringing the Passions Back In: The Emotions in Political Philosophy, UBC Press, 2008より、Ferry and Kingston, "Introduction: The Emotion and the History of Political Thought"と、Leah Bradshaw, "Emotions, Reasons, and Judgements"を読む。

Bringing the Passions Back in: The Emotions in Political Philosophy

Bringing the Passions Back in: The Emotions in Political Philosophy

Bradshawの論文では、ローティのように(と著者は言う)情動emotionを全面的に肯定してしまうのはダメであるとされる。なぜなら、特にpityとかcompassionとかいうようなemotionは、その拡がりにおいて限界があるからである(近かったり、似ていると感じられる人々しかその対象にできない)。つまり、それは、「他者への尊重と純粋な共感genuine empathyを欠いている」(p. 181)。また、それは、権力的な地位にある者の情動であるとともに、究極的には、自己利益self-interestの拡張に過ぎない(p. 183)。
ただし、Bradshawは、感情的なもの全般を否定しているわけではない。アリストテレスの義憤indignationも情動の一種だがOKである。なぜなら、それは「包括的な正義の観念」に応答するから。それは、(pityと違って)「自己利益を超える不偏性の要素」を持っている。
pityは、(憐みの感情なので)より不幸な人にしか拡張できないが、義憤は正義/不正義を実際に評価することによってその範囲を拡大する。「それ〔義憤〕は、自己利益を超え、包括的な方法で他者を考慮することを求める。」(p. 182)
そして、Bradshawは、おそらく、emotionの中で特定の方向に(というのは、不正義に対して、ということと思われる)きちんと向けられるものをpassion(情念)と呼んでいるように思われる(p. 184あたり)。で、義憤は、passionでもある(ようだ)。
となると次の問題は、情念passionは必ず正義と結びつき得るのか、ということになる。
そこで、著者はヌスバウムを参照しながら、emotionはpassionが正しい方向に向けられるように教育されなければならない、という。かつ、このことは、既存の文脈の下で形成された我々の情動的な応答(の様式)を変えることができることも意味する、という(ここで、現状での女性の(男性に対して)「従順な」ふるまいについての考察あり)。
で、ちょっと最後の方がごちゃごちゃしているのだけど、言いたいことは、要するに、「よい情念は、行動と自律と自己主張self-assertionに導く『決定的なもの』である」(p. 187)ということだろうか。
というわけで、情念の中で正義/不正義と結びつき得るものを支持すべし、という話だと思う。ただ、「これまで言われてきたものの中には、そういうものもある(ので、それを評価しよう)」という話に留まっているような気もする。でも、もうちょっと肯定的に見ると、つまり、特定の範囲を超えていくような情動(それが正義とか不偏性につながることを意味する)を評価するべし、ということだろうか。まあ、それでも、それが「情動そのものとして超えていく」ものなのか、「情動以外の何かを含んでいるから超えていく」ものなのかが、気になってしまうのだけど。
(しかし、これじゃ終わらんなという感じ。もとはといえば、自分のごく初歩的な知識の欠如に由来していると思う。ちゃんと政治思想史を勉強しておくべきだったなあ(いまさら何を……)。)