読書

山下範久『現代帝国論』NHKブックス、2008年。

 今考えていることに直結しているかどうかわからないけど、ここのところ「読んでみなければ」と思い続けていたのを、ついに読む。ただし、現在、第2部まで読了したところで、まだ第3部(50ページくらい)を残している(という言い訳)。
 「明示的普遍主義」「否定的普遍主義」「メタ普遍主義」の区別がヒントになる・・・かどうかはまだ断言できないけど、議論は面白かった。
 特に、「否定的」がポランニー的不安を「特異点」化ないし「新しい常態」化し、「メタ」がその「反復的契機」ないし「繰り返されてきた常態」に注目する点に重要な区別を見出す議論が、大変興味深かった。正直に言うと、最初ちょっとよくわからなかったのだが、要は、前者では、不安を過度に煽ってしまい、不安に基づく連帯が限りなく「原理主義」に接近してしまう可能性があるのに対して、後者は「そういう不安は今初めて生じたものではないよ」と説くことで不安のクールダウンを施し、もって世界が「原理主義的な闘争の坩堝」となることを回避するのに役立つ、というわけだ。
 ただ、「特異点か反復か」という議論と、普遍性の「明示的な内容」がオープンであるということ(その意味で「メタ普遍主義」ないし「空虚な普遍主義」)とは、異なる次元の話だろう。つまり、別にシニシストであっても、「メタ普遍主義/空虚な普遍主義」の立場を採ることはできるわけである。シニシストが問題であるのは、「メタ」「空虚」だからではなく、あくまで、それを必要とする状況の出現を「特異」化することで、(意図せずして/それとも確信犯的に?)人々を「原理主義」的な行動――その中にはおそらく「能動的な主体形成」への圧力も含まれる――へと駆り立ててしまう、という点にあるのだから。
 というようなことを指摘するのは、「メタ普遍主義」を人々が受け入れるためには、状況が「特異」であるという認識が必要とも言えるのではないか、と思うからである。ありていにいえば、「これは新しいことではない。以前にもあったことだ」と述べることで「安心」した人々は、「それなのにどうしてわざわざ「空虚」で「メタ」な普遍性を持ち出さなくてはならないのだ、過去の例を学び、現在に適合的な形で「実質的」な普遍性を提示したほうがよいではないか」と思うかもしれない。つまり、「空虚」「メタ」を正当化するためには「特異点ぶり」を持ち出さざるを得ないのではないだろうか。
・・・などと思ったのだが、まだ最後まで読んでいないので、的を外しているかもしれない。そもそも、この話が直近で抱えている僕のテーマとどう切り結んでいるのかというと、必ずしも直接には切り結んでいないような、いや、結んでいるような・・・というような感じなのである(言い逃れです)。