読書

ざざっと流し読みだけしていた、井上達夫編『岩波講座憲法1 立憲主義の哲学的問題地平』より、まず毛利透「市民的自由は憲法学の基礎概念か」をある程度きちんと読んでみる。

岩波講座 憲法〈1〉立憲主義の哲学的問題地平

岩波講座 憲法〈1〉立憲主義の哲学的問題地平

 うーむ。何という力強い議論。とりあえず、やはり学者というのはこういう風に書かないといけないのかなあ、と全くの別件での某やりとりのことを思い起こしながら、我が身を反省する。
 毛利氏の議論のポイントは、民主政には「市民」が必要だとした上で、その「市民」をあえて「少数」「変人」と呼びつつ、しかし、「市民」になろうとする人には、例えば表現の自由といった形で、そのための憲法的保障が必要だ、と論じるところだろう。

少数の者が参加する公共圏が民主政を支えているからこそ、少数者になることのリスクを減らす必要がある。アレントが現代における政治への参加者として想定していたのは、生活に不自由のない富裕層ではない。日常的な社会の不公正に耐えられなくなって、どうしても異議申立てをしたいという人々だ。「臆病者」こそ「本来の意味の勇気」を持てると彼女は言う。この勇気があっても世界は多分変わらないだろうが、それがなければ世界は絶対に変わらない。憲法は、臆病者の勇気をくじかず、促進するインセンティブを与えなければならない。民主政を支えているのは、普通の人々ではなく、市民的自由を行使する変人である。そして、誰もが「市民」に、つまり変人になれることを保障するのが憲法の重要な役目である。(同書、24-25頁。注は省略)

 うまく言えないのだけれど、毛利氏の議論は、単純に「声なき声を挙げることのできる市民の存在が大切だ」といった、いわゆる「市民派」的な主張と、内容的にはほとんど同じである。ただ、後者の場合は、「誰もが市民なのだ」=「普通の人が市民なのだ」という含意がわりと直接的に見て取られる(ように思われる)のに対して、毛利氏の場合は、市民が「少数」であるだけでなく「変人」であるとまで、「あえて」述べてしまうことで、市民擁護論としては、やや変奏気味のトーンを帯びているように思われる。
 それにもかかわらず、毛利氏の議論がエリート擁護論風にならないのは、その市民論があくまで権利論の土俵で語られているから(と、僕は思うのだが)だろう。誰もが「市民」になろうとするわけではないが、なろうとする者のためにその(市民的自由の)権利保障をきちんとやらなければならない、というわけである。そういう意味では、毛利氏の議論は、確かに、長谷部氏などと比べると、大変オーソドックスな議論、ということになりそうだ。
 同じ議論を義務の観点から展開するとどうなるのだろうか?