読書

 ここのところずっと気になっていて、本棚をあちこち探していた本。ようやく発見し、気になっていた箇所を探して再読。

日本という身体―「大・新・高」の精神史 (講談社選書メチエ)

日本という身体―「大・新・高」の精神史 (講談社選書メチエ)

 気になっていたのは、武者小路実篤の『桃色の室』という戯曲に、他の人がどうであろうと「私は知らない」という、ある意味徹底的な「自己の為」の論理を見出しているところ(「桃色の室」に住む「桃色の女」は、寒さで凍えそうな「灰色の女」に「勝手にお死になさい」と言う)。そして、その「桃色の室」に閉じこもり、これを守ること、つまり自分以外の「社会」に何があろうとも「私は知らない」という姿勢を貫くことが、結果的に戦争への不支持を帰結すると示唆しているところ。
後者の点について、著者の加藤は、小林秀雄が「日本に生まれたといふ事は、僕等の運命だ」と言って日本の戦争支持へと動くのに対して、次のように述べている。

このことは・・・小林に「西欧的知性」への免疫は十分にあったが、一方、あの日本的身体の共同性への免疫は、ほとんどなかったことを示している。
 ここで彼は、たとえ戸口のむこうにジイドがこようとヴァレリーがこようと、自分は扉をあけないといっているのだが、では誰がこようとこの「桃色の室」を守るといっているのかといえば、そこに「事変に黙つて処した」国民がくるや、とたんにこれを明けわたしているのだからである。(加藤『日本という身体』193頁)。

  「私は知らない」と言って徹底的に「桃色の室」に閉じこもることがラディカルな意味を持つことがある、加藤が示唆しているのは、そのようなメッセージである。このメッセージをどのように受け止めるべきか、少なくとも僕にはにわかに回答の出せない問題であり、だからこそ、ずっと脳裏にこびりついているのである。