よくわかった

って、何がって、宮台さんの「アイロニー」と「オブセッシブ」の関係ですよ、ええ。

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

 自分の不真面目がいけないのですが、さらっと読んだときは、多分その前の宮台/仲正本から引き続きの「ネタ/ベタ」軸に頭の中が引っ張られていて、よくわかってなかったんですけどね。
 それにしても、やはり宮台さんは単なる秩序問題(「秩序はいかにして可能か」的問題)を考えているのではなくて、「望ましい」秩序問題(「人が望ましく(というのは、「自由」に)生きることのできる秩序はいかにして可能か」的問題)を考えているのです。きっと。
 とはいえ、「参照項」(北田)あるいは「別様」の可能性を、「歴史」(としての亜細亜主義天皇制)に求めることの有効性は、なお議論の余地があることでしょう。少なくとも、それらは「ベタ」ではなく「ネタ」であることについての(「歴史」的知識そのものではなく)「理論的知識」が前提です。かつ、宮台さんいうところの「エリート」が「亜細亜主義」「天皇制」によって感化されるかどうかも、「戦後民主主義」よりもその可能性が高いことを受け入れたとしても、一概には言えません。この戦略は、「社会批判」の流儀として、普遍的なものよりも、どこまでも当該文化の内部にその手がかりを求める(「解釈」)べきとするM・ウォルツァーさんの戦略とも一致するものがあると思います。
解釈としての社会批判―暮らしに根ざした批判の流儀

解釈としての社会批判―暮らしに根ざした批判の流儀

 あるいは、丸山真男さんの日本政治思想史研究にも相通じる問題意識なのかもしれません。
日本政治思想史研究

日本政治思想史研究

 僕もこの戦略はそれなりに魅力的だと思います。ただ、一つの問題は、ここで当てにされている「当該文化」というコンテクストがどれほど共有されているか、という点にあるのではないでしょうか。宮台さんやウォルツァーさんのような「解釈者」が「共有されている(されるはずだ)」と思っているものがそれほどではないかもしれない可能性は、再帰的な後期近代では高まりこそすれ、低下することはないでしょう。
 そうだとすれば、だからこそ、普遍主義的な観点のみで押す議論のほうがむしろ人びとを感化する、ということもあり得るかもしれません。たとえば、長谷部恭男さんも、宮台さんと同じように、境界線というものは所詮は擬制であり根拠はない、ただし、そうであるがゆえに、いったん後退を認めるとそれを止める根拠はなく、より事態は悪化する、ゆえに擬制をあえて尊重することが道理なのだ、と説いています。この点では、自称「ネオコン」の宮台さんと長谷部さんは同じような議論を展開しています。しかし、長谷部さんは宮台さんほどには個別の文化・歴史を持ち出すことはないのではないでしょうか。もちろん、長谷部さんも、ローティと同程度には文化的制約性を認めていたかもしれませんが(ちゃんと検討しないと)。
憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

 あるいは、普遍的ではなく個別的なのだけれども、でも当該国の文化・歴史には、それほど馴染み深いわけではないものによってこそ、自己の認識が拡張する、ということだって、論理的にはあり得ないわけではありません。宮台さんが以前の著作で持ち出していた例を使えば、「サクラ」に感化される人(「文化・歴史」。ただし、カッコつき。)もいれば、「郊外」の団地の風景に感化される人(非「文化・歴史」)もいるわけです。
 まあ、宮台さんは、そういう可能性も知ったうえで、戦略的に一番効果的な方策を採用しているのだ、とおっしゃるのでしょうけれども。