読了

 ほとんど現実逃避なのですが。。。と、誤解のないように付け加えると、僕の「最直近」の宿題というか負債*1の返済にとっては、「政治」とか、「デモクラシー」の問題は直接には関係しないということですので、念のため。

 全体として、マルクス主義との関係がかなり意識された記述になっているのは、重要なポイントかもしれません。本書は、大陸系政治理論・政治哲学を考える時に、マルクス主義的視座との位置関係を考慮することは今でも重要、と思わせてくれます。ルフォールとか、カストリアディスとか、バリバールとか、翻訳しか読めませんが、きちんと読んでみよう、という気にさせられます。カストリアディスは、以前どっかで一度、マジメに読んでみよう、と思って、何冊か買ったのですが…「積読」というか、本棚の奥のほうに…。
 「政治」「政治的なるもの」≪政治≫の区別も、大変興味深いところです。とりわけ、≪政治≫を取り出しているのが重要で、この概念によって、いわば「作為」的契機をもった営みでありながら(⇔「政治的なるもの」)、同時に社会の一領域としての「政治」の作用にも限定されない(⇔「政治」)、脱領域的かつ作為的な政治を把握できていると思います。
 デモクラシーと自由主義の関係についての考察も興味深いです。著者によれば、フランスでも「自由主義復権」が見られるが、それは国家による社会への干渉への批判というよりも、デモクラシーをより高度化するためなのです(p.188)。

現代の政治哲学者たちが問うのは、もはやデモクラシーの正当性ではない。むしろ、デモクラシーしかないことを前提に、それにいかにして高度な自己制御能力、自己反省能力を備えさせるか、ということが問われている。

 かつて、C・B・マクファーソンは、消極的自由を擁護するための「防御的民主主義」というモデルを提出しましたが、現代フランスの政治哲学では、デモクラシーを擁護するために自由が用いられている、と言えるでしょう。
 ところで、著者の「デモクラシーの高度化のための自由主義」という主張と、「デモクラシーによる多数者の専制を防ぐためにもリベラルな原理が必要なのだ」という主張とは同じでしょうか?僕は違うと思います。後者の主張では、デモクラシーそのものを高度化するというよりは、それに対するストッパーとしてリベラルな原理が説かれているのであって、リベラルな原理によってデモクラシーがより発展する、という含意はあまり存在しないように思われるからです。後者では、デモクラシーの限界が重視されるのに対して、著者においてはデモクラシーの不可避性の上にその「限界」を超える道が模索されていると言えるでしょう。
 というわけで、問題は、その「高度化」の展望ということになります。この点について、著者は、スキナー的な「個人的自由を守る手段としての(道具としての)政治参加」という見解と、ポーコック的な政治参加そのものを価値と見なす見解とを、対比させて紹介しています(p. 196)。この対立自体は、おなじみのものであるだけでなく、もしかしたら永遠の対立です。ただ、理論的には、どちらの可能性もあると思います。合理的選択理論ならば、効用最大化を志向する個人が協調解を選択するための制度的誘因の設計問題としてこの問題を捉えるでしょう。他方、人々がすべからず利己的にのみ行動する、という想定は、むしろ非現実的である、と考えることもできるでしょう。現代人である私たちは、その生活時間の多くを「ミー・ファースト」で過ごすでしょうけれども、だからといって(自己の効用最大化に資するとは限らない)集合的な活動への関心を一切持たない、ということもできないはずです。「おぼれている子どもを助けるために思わず川に飛び込む」という文字通り利他的な行動は極端な例だとしても、集合的な事柄への関与を善しとする志向性がないわけではないのです。ただ、それは表明されにくい(場合によっては著しく)ということです。
 僕自身は、「人々が有しているであろう潜在的な集合的関心」の理論化に関心があります。が、それとともにもう一点、現代社会において人々は、「道具」か「価値」かを問わず、社会の様々な局面で≪政治≫に巻き込まれざるを得ないのだ、という視点も差し込んでみたいと思います。「巻き込まれざるを得ない」ということは、「道具」とも「価値」とも異なる資格であるように思うのです。「どこがどう違うのだ?」と言われれば、自分でもうまく説明できませんが。。。

*1:つまり締め切りを過ぎているということ。