読書

井上彰「正義・平等・責任――正義としての責任原理・序説」および田畑真一「熟議デモクラシーにおけるミニ・パブリックスの位置づけ――インフォーマルな次元での熟議の制度化」、いずれも、須賀晃一・齋藤純一編『政治経済学の規範理論』(勁草書房、2011年)を読了(後者は、ちょっと前に読んでいたのだけれど)。

政治経済学の規範理論

政治経済学の規範理論

後者からいくと、ミニ・パブリックスが二回路モデルとの関係で抱える問題点、特に「制度化」をめぐるそれ、を指摘している。丁寧な検討は、好感が持てる。ただ、僕が思うのは、二回路モデルを前提とした熟議民主主義論を、ぼちぼち乗り越えるべきかもしれないということである。そう思うのは、とりわけ近年のドライゼクのdeliberative system論に込めている問題関心を意識しているからかもしれない。
前者については、後者以上に僕自身が素人なので、以下のメモは、自分の理解をきちんとするためのものだ(なので、長いということ)。「責任」の構想を平等ないし正義の原理に組み込む際の難問をどのように解決できるかという問題に取り組んだ論考である。著者によれば、「自由意志」の概念によっては、人が責任を負える範囲を確定できない。ゆえに、責任の構想を平等論/正義論に取り込むためには、「自由意志」に拠らない立論を模索しなければならない。そこで著者は、正義構想の「背景」に注目するべきとする。私たちは「非理想的な現実的制約条件下にあるという事実」ゆえに「正義が問われる」と、著者は主張する(105頁)。そこで、そのような「現実的制約条件」として提起されるのが、ロールズの「社会における人間の一般的事実」を踏まえた「正義の一般的情況」の概念である。各人の「責任」の所在は、このような意味での「一般的情況」に照らして判断することができる(べきだ)、というわけである(108頁)。そして、著者は、ここでロールズに依拠することが、他方のロールズにおける責任/功績の構想への批判との関係で問題となることを認識しており、最後にこの問題を検討している(5節)。ある意味でロールズに依拠しつつ、(「責任」についての)ロールズの「限界」を超えようとする議論とも言えようか。
この分野の議論に詳しくない僕にも、著者の議論の筋道は、よく理解できたと思う。その上で二つの疑問を述べてみる。いずれも、「正義の一般的情況」に関わるものである。
一つは、この情況の第一の要素(人々の利益の穏やかな同一性とそれゆえに起こる利益衝突の可能性)が、なぜ「責任」の割り当てに結びつくのかが、わかりにくいという点である。とりわけ、「利益の穏やかな同一性」の方は、「責任」構想のために必要な要素なのだろうか。利益が異質であれば、「責任」を割りあてることはできないとすれば、それはなぜなのか。もっとも、これは著者自身が109頁で著者の別稿を参照するように求めているので、そちらをきちんと読めばいいのかもしれない。
二つ目は、行動経済学的に置き換えられるべきとされる「経済学と心理学の一般的事実」についてである。恐らく著者の言うように、「そうした不合理性をふまえると、個人のパフォーマンスに割り当てるべき責任の範囲について慎重な考察が求められてくる」「責任の範囲や程度は・・・より限定的なものに変更せざるをえない」(110頁)ことになるだろう。ただ、そうなると、そこまで責任の範囲や程度を後退させても、なおも責任原理を擁護すべき理由について、もう少し積極的に提示する必要が出てくるのではないだろうか。その程度の責任であれば、それを積極的に平等論の基礎として掲げる必要はない、という立場もありそうな気がするからである。もう一点、細かいことを言うと、より限定的な責任の場合に、「パフォーマンスの合理性よりも『適理性(reasonableness)が問われてくる」(110-111頁)というとことは、少し理解が難しかった。