民主主義と「あきらめること(諦念)」、についてのメモ書き

 民主主義あるいは政治一般の意義が語られる時には、今回の私の表現では「あきらめないこと」によって語られることが多い。「自然」に対する「作為」(丸山眞男)、「運命」に対する「政治」(アンドリュー・ギャンブル)といった表現には、政治・民主主義とは、現在の状態を自明のものとして(「自然」のものとして/「運命」として)受け入れるのではなく、人々の力で代えることができるのであり、それこそが政治の存在理由だ、といった意味が込められていると思われる。しかし、これとは違う見方はできないだろうか。つまり、政治の中でも特に民主主義を「あきらめること」によって特徴づけることである。
 例えば、代表制民主主義について、しばしば本人たる有権者と代理人たる代表(政治家)との関係で捉えられる。この関係において、「本人」は「代理人」に本人の意見や要望を託し、「代理人」にはそれを本人に代わって実現することが期待されているとされる。そして、もしその託されたものをうまく実現できなかった場合には、本人による代理人の解任、つまり選挙を通じた不信任が示されるとされる。ここには、代理人は本人の意見や要望を実現するべきという規範的期待が込められているとともに、代理人は本人ではない以上、必ずその期待に応えられるとも限らない、ということも含意されているように思われる。そうだとすれば、この本人-代理人関係としての代表制民主主義には、「あきらめること」のモメントがビルトインされている、と言えないだろうか。
〔加筆〕
 あるいは、熟議民主主義について。この民主主義では、話し合いの中での「意見の変容」が期待される。このことを、「自分が妥当と判断した理由を受け入れて意見を変える」と捉えると、自らの主体的な判断のように見える。しかし、「自分の元々の意見を妥当性の基準に照らしてあきらめる」と考えることもできないだろうか。熟議民主主義では、「みんな」の意見が等しく考慮されるべきだが、だからといって一人一人の元々の意見がそのまま尊重されるわけではない。そこには、自分の意見を「あきらめる」ことも含まれているのではないだろうか。
 さらに、対立・敵対性を重視する闘技民主主義の場合はどうだろうか。この民主主義において対立・敵対性が重視されるということは、「誰もが同じ立場になる」ことの断念を意味する。つまり、どれほど自分の(自分の側の)意見が「正しい」と自分では思っていたとしても、そこに決して賛成し同一化することのない「他者」が存在する。闘技民主主義とは、そのような他者とも最低限の共有されたルールの下で対立関係を維持することである。ここには、どうしても同一化できない他者への「あきらめ」が内包されていると言えるのではないか。
 このように考えると、民主主義には「あきらめること」が伴っていると言えそうである。これは、「現状を所与のものとして受け入れる」という意味での「あきらめ」とは異なる(だろう)。しかし、民主主義で物事を決めるということは、「自分が思うようにはいかないかもしれない」ということを受け入れることでもある、ということである。