広島のこと

 8月6日前後には、広島のことを考える機会が増える。今年は雑誌『現代思想』の8月号が「〈広島〉の思想」という特集で、それを少し前にぱらぱら読んだ。
 「8月6日と広島」ということで僕に思うところが出てくるのは、単に広島に住んでいたからということだけではなく、通っていた保育園が基町のそれだったという経験に拠るところが大きいのだろう。もっとも、我が家は基町にあったわけではなく、いくつかの理由から(たまたま?)そこに通うことになっていた。もし家の近くの保育園に通っていたら、広島在住と言っても、どこまで原爆のことを意識したかはわからないような気がする。再開発真っただ中の基町地区に通っていたことが、後になって、色々と思うところにつながっているのだろう。
 保育園自体には、あまりよい思い出はない。給食やおやつにはおいしくないものがいくつか出てきて食べるのに苦労したし(あまり質のよくない肉の入ったうどん、脱脂粉乳だったかどうかはわからないが確実においしくなかった牛乳、ラムネ菓子の一種のようだったがものすごく苦手だったお菓子など)、跳び箱に苦手(恐怖)意識を持ったのもその時だし、太っていたので上級生には時々そのことでちょっかいを出されて嫌だったし、そもそも、家からの移動が不便で毎日の行きと帰りが大変だった。もっとも、最後の点については一番大変だったのは両親だったと思うし、そもそも僕はその前に通っていた別の保育園でも、うまくなじめなくて保育士さんたちの手を煩わせていたらしいので、よい思い出がないのは僕のせいかもしれない。
 でも、再開発の時期の基町の保育園に通ったおかげで、僕の中には忘れることのできないいくつかの視覚的・心象的イメージが残った。「原爆スラム」と呼ばれたバラック街の(おそらく)残骸、それと一見対照的に見え、当時は最新の団地として賞賛もされた高層住宅の、アパート内の暗さと部屋の狭さ、その高層住宅と低層の住宅との境目のあたりの雰囲気、新しい保育園・幼稚園・小学校とショッピングセンター。そして、隣の広島城の入り口付近に時々いた傷痍軍人(だと思う)と真新しい広島そごうデパートの開店と・・・。
 これらの視覚的・心象的イメージを、今までのところ、僕は、自分の個人的経験としてしか述べることができない。そして、少なくとも現時点では、自分が今後このことについて研究することもないと思う。そういう意味では、こういう言い方が適切かどうかわからないけれども、とても「私的」なことなのだ。いつか、「広島」について、こんな風にブログで書く以上のことを行う日が来るだろうか。