回顧的と展望的

30代の中頃あるいは後半まで、僕はよく昔のことを回顧して頑張る糧にしていた。このブログのかなり以前の記事を見てもらえればわかるかもしれないが、特に高校時代のことが多かったと思う。高校時代のバスケットボール部での体験は、僕にとって「成功体験」として記憶されていたからだろう。追い込まれた時、苦しい時、思い出していたのは、高校時代のバスケットの苦しい試合のことだった。
いつのまにか、このような形で昔のことを回顧しなくなったと感じる。もちろん、それは僕の大事な思い出であり、時々思い出してはいる。でも、今はもうそれを直接の糧として頑張る、という形では、多分あまり動いていない。思い出す時には、(最終的にはあまりうまくいかなかった)大学時代の部活との比較で、集合行為(としてのチームスポーツ)の難しさ(何かちょっとしたことが契機となって全体がうまくワークするようになることも、その逆もある)を、やや距離を取って考えている場合が多いような気がする。
思うに、僕はそれなりに歳を取り経験を積み、その結果、あまり過去の経験をわざわざ呼び起こさなくても、それなりにやっていけるようになったのではないか。もちろん、研究の世界は刻々と移り変わっていくのであり、それゆえ、自分がその移り変わりに置いて行かれるのではないかという漠然とした不安はいつもつきまとっている。それでも、その不安を払拭するのに、過去の自分に立ち返ることはそれほどなくなっている。むしろ、不安にもかかわらず、展望的に先のことを考えていることが多いような気がする。
ようやく「大人」になったということかもしれない。でも同時に、その時にはもう、きっと人生は半分以上終わっている。展望的に生きていけるようになったと思ったら、「終わり」に向かって生きていることにもなっている。さて、どうやって生きていけばいいのか。僕はきっと、このことでこれから悩むことが増えるだろう。その時また、まだ「終わり」に向かっては生きていなかった頃のことを思い出し、何かの糧を見出すことになるのだろうか。