政治学に関する雑感

妻と話していたら「学部生時代には勉強していなかったなあ。何をどう勉強すればいいのかもわかっていなかった」という話になり、自分が「政治学」とは何なのかよくわからないと思っていたことを、あらためて思い出した。
もっとも僕の場合は、「よく勉強したけどわからない」と言えるほど勉強していたわけではないので、わからなかったのは単なる勉強不足のせいかもしれない。研究者が「勉強不足」と言う場合は大抵謙遜だが、僕の場合は、大学でやっていたことはバスケットボール部(体育会)の活動とあとは怠惰な日常の日々だったので、謙遜でもなんでもない。4年生の時に大学院入試に失敗してからの1年半は相対的にはよく勉強した。でも、いかんせん遅すぎたというか、やっぱり政治学を「わかっていた」とは到底言えない。
僕が「わからない」というのは、次のような感じのことである。たとえば、「ネオ・コーポラティズム」について勉強したとする。その結果、ネオ・コーポラティズムとは何かについていくつかの議論があることを知る。どんな研究者たちがこの概念について議論しているのかを知る。それが「福祉国家の危機」と関連しているらしいという時代状況的なことも知る。そういうことも含めて、何やら比較的先端的な議論の一つであるらしいことを知る(90年代初頭の時期で既に「比較的先端的」だったとは言えないかもしれないが、まあそれはそれ)。そして、「だからどうなのか」というところが「わからない」のである。
似たような例はいくらでも出すことができる。たとえば、「権力」という概念について勉強したとする。その結果、色々な権力の定義があり、色々な学者が論じていることを知る。一次元的権力観と三次元的権力観とはどこが違うのかといったことも知る。そして、「だからどうなのか」というところが、やっぱり「わからない」のである。あるいは、(当時関心のあった)ドイツの政党政治について、いつごろまでがCDU首班政権で、いつごろからSPD首班で、といった話を知る。でも、「だからどうなのか」というところは、やっぱり「わからない」。
ネオ・コーポラティズムにせよ、権力にせよ、政治の話だということはわかる。だから、政治学の勉強なのだということもわかる。でも、結局のところ政治学とは何をする学問なのかということは、「政治について研究する学問」というほぼトートロジーのようなことしかわからない。いくら怠惰でも、さすがに卒業するころには、政治学に関係することになっている各種知識はある程度は知っていたはずである。でも、「政治学」をわかっていたとは到底言えない。
今ならば、当時の「わからなかった」僕にも多少はわかるように、政治学とは何かについて話すことができるかもしれない。それでも、僕はずっと「政治学って何なんだろう?」と考え続けているように思う。良かれ悪しかれ、この問いがいつも基底にあるような気がする。そう、「良かれ悪しかれ」なのであって、こういう問いに囚われているがゆえに行うことができない研究というものもある。でも、こういう問いに囚われているからこそできることもある。そして、きっとこれからもこういう問いに囚われ続けていきそうな気がするので、僕の行う研究は大なり小なり「政治学とは何か」という問いを反映したものであり続けるのだろうな、と思っている。