ジェニファー先生

 僕が英語を習っていたのは、ジェニファー先生でした。先生とは最初、去年の6月ごろに、ANU関係者(主に客員研究員や大学院生)の家族向けの英語教室で出会いました。その教室に通う傍ら、去年の9月ごろから、先生のご自宅での別のレッスンにも通い始めました。後者は、シェイクスピアを読むクラスで、通い始めたころは僕を入れて3人。でも、すぐに一人が帰国(韓国へ)し、2人に。そして3月からは、僕一人になりました。
 前に書いたかもしれませんが、ジェニファー先生はANUの中国史でPhDを取り、その後ポスドクもやりましたが、思うところがあって、研究者として大学に残る道は選ばず、公務員として勤務されたようです。現在は退職して、英語を教えているのでした。
 英語教室といっても、ジェニファー先生のそれは、会話というよりは、文章をきちんと読み、語彙も増やしていこうというものでした。だから、英語教室の方に通い始めた時は、もう少し会話を増やしてもらえればいいのになあ、と思わないでもありませんでした。
 また、シェイクスピアを読むのは、かなりハードでした。基本的にオリジナルの文章のため、まず、単語というか英語そのものが古いスタイルのものです。文法も、必ずしも確立していない上に、調子を合わせるために、いろいろと語順を入れ替えたりしているので、なお大変です。そのうえ、キリスト教ギリシャ神話などについての知識がないと理解できない箇所も多々あります。そして、恥ずかしながら、この歳になるため、シェイクスピアを日本語でさえ読んでいなかった僕の「土地勘」のなさもありました。
 加えて、ご自宅でのクラスは、5〜6時間にも及ぶもので(と言っても、間にランチも入るのですが)、やっぱり英語でそれだけの時間を過ごすのは、なかなかに大変なことでした。
 でも、結果的には、ジェニファー先生に教えてもらえたのは、本当に幸運なことでした。まず、先生は毎回、膨大な量のボキャブラリー説明のプリントを用意してくれました。それは、単なる「単語帳」ではなく、類似の表現をいくつも示したり、テキストの背景を説明したりと、それを読むだけで大いに勉強になるものでした。次に、特にご自宅でのクラスでは、単なる「英語教室」の域を超えて(と、僕には思われますが)、英語の語源やヨーロッパの歴史についても、よく話してくださりました。黒澤映画を観なさいと勧めてくれたこともあります(それでいくつか、先生からDVDを借りて観たのです)。それから、テキストを離れて、社会問題について先生と話すことも、とても興味深い経験でした。最後に、先生は、人間として素晴らしい方でした。比較的物静かな雰囲気と(もっとも、ご本人は全然物静かではないとおっしゃるのですが)、社会的公正への強くて熱い意思を併せもった方でした。いくつかの発言を、そして、先生のライフヒストリーにおけるいくつかの出来事を、僕はきっと忘れることはないでしょう。
 ジェニファー先生をひとことで表現するとすれば、それは、「勇気ある知識人」です。若干手前味噌的ですが、これは我が大学の教育目標なのでした。でも、この言葉が真っ先に浮かんでくる、そんな先生でした。
 先生のご自宅にお邪魔した最後の日、先生は、とても悲しんでくださったようでした。妻は、先生はきっと僕のことを息子のように思ってくれていたのではないか、と言います。そうかもしれないし、そうではないかもしれません。でも、このキャンベラで、ジェニファー先生に教えてもらえたことは、本当に幸運なことでした。僕の英語力が多少なりとも向上しているとすれば、そのかなりの部分を、ジェニファー先生に負っていることは間違いありません。長いようで短かった約1年間、本当にありがとうございました。