deliberative system

'deliberative system'という言葉は、Jane Mansbridgeが'Everyday Talk in Deliberative System'という文章の中で使ったものだ。その後、Carolyn Hendriks, John Parkinson, Robert E Goodin, そしてJohn S Dryzekといった人々がこの用語を積極的に使い、発展させようとしている。面白いことに、みんなANU関係者だ。Parkinsonは今はイギリスだけど。熟議を広く捉えていこうとするところに、そしてそれを政治哲学と経験的分析の間でやろうとするところに、意図したのかどうかわからないけれど、「ANU学派」(勝手に命名)の一つの特徴があるのだろう。
deliberative system概念の示唆するところは、恐らく二つある。
一つは、熟議民主主義の場を、多様かつ広範なものとして、そして様々な(異なる)熟議の場の関係を見ていくというアプローチを発展させるということだ。まさにマンスブリッジがそうであったように、熟議システムは、もっとも身近なところでは、家族などの親密圏までも視野に入れる。もっとも、この点は、その後の研究の展開で少々おろそかになっていた点であると、個人的には思っている。マンスブリッジがフェミニズムの視座を持っていたからこそ、捉えることができた「親密圏/家族におけるデモクラシー」という観点を、必ずしもフェミニスト的ではない、その他の研究者では真剣に受け止めることができていなかったきらいがあるということだ。僭越ながら、その点に自分の貢献できる点もあると思っている(英語で書けば、だけれど)。
もちろん、「多様かつ広範」の中には、各種アソシエーションや利益団体、さらには、超国家的な諸制度までも含まれる。熟議民主主義=市民討論会ではないし、熟議=国会の審議、でもないのだ。これらはすべて「熟議システム」の構成要素なのである。熟議民主主義は、抽象的な(具体的な利害から離れた)「市民」だけを念頭に置いている、というようなタイプの指摘があるが、熟議民主主義の研究動向をきちんとフォローすれば、そのような理解はいささか早計に過ぎるということがわかる。
二つ目の示唆は、熟議民主主義研究が、リベラル・デモクラシーを、あえて大胆にいえば相対化する方向に進み得る、ということである。「相対化」というのは、様々なデモクラシーの一つとして、リベラル・デモクラシーを見るということである。
熟議民主主義は、リベラル・デモクラシーの補完に過ぎないのかどうか、という論点は、僕の理解するかぎりでは、ハーバーマスの『事実性と妥当性』の評価などを中心に論じられてきたと思う。そこでの標準的な理解は、熟議民主主義はリベラル・デモクラシーを否定するものではない、ということだったはずだ。
しかし、もちろん否定はしなくとも、熟議民主主義が常にリベラル・デモクラシーの下で「のみ」作動するのかどうか、という点については、本当はなお検討の余地があるのかもしれない。 リベラル・デモクラシーが選好の集計と多数決を軸とするのであれば、それに異を唱える熟議民主主義が「リベラル」ではない「デモクラシー」の下でも存在し得る、と想定してみることは、理論的にはそれほど突飛なことではない。
そのように考えれば、熟議民主主義の研究者たちの少なくとも一部が、中国における熟議民主主義に関心を寄せていることも、一見不可解なことに見えたとしても、学問的には、決して突飛なことではないのである。(と、最近思うようになった)
もちろん、ことは「社会主義」の下でのデモクラシ―の話に限らない(それは、あくまでリベラル・デモクラシーと対照的な類型の一つとして学術的に検討するに値する、という話に過ぎない)。一点目で書いたように、たとえばEUについて、EU議会の正統性の弱さをもって「民主主義の赤字」と言うのは、リベラル・デモクラシーの定義に則っているからそう言える、と言うこともできる。もしも、EUレベルで、議会とは異なる熟議民主主義の仕組みと試みがそれなりに存在していればb、「民主主義の赤字」とだけは言えないかもしれないのだ(これは、小川有美氏が最近扱われている論点である)。
念のために言っておくと、今の話は、「熟議民主主義はリベラル・デモクラシーを否定しようとしている」ということでは全くない(そういう誤解を生みそうなので、書いておくけれども)。そうではなくて、リベラル・デモクラシーの下でも、そうではないデモクラシーの下でも、異なる類型の「熟議システム」が存在し得ると少なくとも理論的には想定し得る、ということなのである。
もしそうだとすれば、このような観点も含めて「熟議システム」を考えていこうとする研究者たちが、少なくとも『事実性と妥当性』におけるハーバーマスよりも「ラディカル」であると言うことができるように思われる。というのは、ハーバーマスは、リベラル・デモクラシーを前提としたうえでそれをいかに反省的にするか、ということを考えていたからと思われるから(なお、それには冷戦崩壊=社会主義の崩壊という時代状況があったことが当然影響している)。
そういう意味で、熟議システム論は、かつてのC・B・マクファーソンのデモクラシー理解(リベラル・デモクラシーをデモクラシーの類型の一つとして扱う理解)の重要性をあらためて思い起こさせるものでもある、と僕自身は思っている。

Deliberative Politics: Essays on Democracy and Disagreement (Practical and Professional Ethics)

Deliberative Politics: Essays on Democracy and Disagreement (Practical and Professional Ethics)

↑マンスブリッジの論文を収める。
Deliberating in the Real World: Problems of Legitimacy in Deliberative Democracy

Deliberating in the Real World: Problems of Legitimacy in Deliberative Democracy

Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn

Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn

↑グッディンなりの熟議システム論を展開した論文を含む。
Foundations and Frontiers of Deliberative Governance

Foundations and Frontiers of Deliberative Governance

↑上のエントリの示唆をこの本のイントロからかなり得ている。
事実性と妥当性(上)― 法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究

事実性と妥当性(上)― 法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究

事実性と妥当性―法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究〈下〉

事実性と妥当性―法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究〈下〉

現代世界の民主主義 (1967年) (岩波新書)

現代世界の民主主義 (1967年) (岩波新書)

自由民主主義は生き残れるか (1978年) (岩波新書)

自由民主主義は生き残れるか (1978年) (岩波新書)

The Search for Deliberative Democracy in China

The Search for Deliberative Democracy in China

↑未読だけれど、もしかしたら無視できない一冊になるのかも・・・。
歴史政治学とデモクラシー

歴史政治学とデモクラシー

↑補遺で、上の本のハードカバー版に言及しつつ、中国における熟議(討議)民主主義の可能性についても述べられている。きちんと言及しているところに、篠原先生の学問的センスを感じる。