いずこも同じ?

 写真ばかり載せておりますが、今日のメインは、博士候補生の皆さんが、大学院の現状と問題点について自由に議論するセッションだったのでした。
 まあ、ほとんどがネイティブの人たちのフリーディスカッションに3時間立ち会うのは、僕にとっては、なかなかハードでしたが、ただ聞き取れた範囲内では、こちらの院生の直面している問題も日本と同じようなものなのだなあと思いました(程度の差はあるかもしれませんが)。
 ANUの大学院(博士課程)がとても平等であるということは皆さんそう思っているようなのですが、指導教員やその他のスタッフとの関係は、なかなか不満も多いようです。
 とくに、ちゃんと話を聞いてくれない、特に分野が違う教員が、分野が違うからとなかなか関心を持ってくれないという話が多かったように思いました。
 ただ、この状況に対しては、院生の方から積極的に働きかけることも大事だという人もいました。書いたものを送ってコメントを求めたりとか、そういうことです。
 さらに、院生同士も含めて、最もインフォーマルな会話/議論の機会を作って、それぞれのアイデアや注目している本などについて語りあわなければいけないという意見もあって、こういう話もどこかで聞いたことのある話だなあ、と思いました。
 やっぱり、どこの国でも(といっても、日本とオーストラリアだけなのですが)、教員と院生の関係をどのように良好にしていくかということが重要な問題なのだなあと、あらためて思った次第です。
 その他にも、フィールド・ワークを評価してくれない/教員がやっていないという意見に、いや、そんなことはない、○○などは独自の手法でやっていると応えるやりとりがあったり、学位取得後の就職問題が語られたり、政治学におけるジェンダー・バイアスの問題が指摘されたりと、この辺も、詳細はともかく、大枠としては、よくわかる話でした。

 午後は、フリーの時間があったので、今度国際会議で報告する博士候補生のSelenのペーパーへのコメントを書きました。彼女のプレゼンは前日聴いていたのですが、ペーパーを送ってもらって、「コメントする」と言った手前、やらないわけにはいかないと思い、頑張ってみました(笑)。
 ペーパーの内容は、ドライゼックやデュバー(Deveaux)などの多元主義的な熟議民主主義論者による文化的な多様性の扱い方、あるいは「分断社会」における熟議民主主義のありかたについての議論を批判的に考察したもので、僕にとっても、大いに参考になるものでした。彼女は、ドライゼックを評価しつつも、しかし、彼が分たれたアイデンティティを熟議が全般的に扱うことが問題の解決を困難にすることを「恐れて」(というのは彼女の評価ですが)、特定のニーズに問題を絞り込むような言説的なフレーミングを指示していることを問題視します。このやりかたでは、結局、アイデンティティの戦略的な動員を回避することができないというわけです。また、ドライゼックが「問題解決」にウェイトを置き過ぎている(と彼女は評価するわけですが)ことも、争点を限定化することにつながっている、と言います。
 これに対して彼女は、むしろ、アイデンティティ全般に関わる「深刻な不合意」そのものを熟議の対象にすることは可能だし、そのための条件を考察するべきだと主張します。
 彼女の議論は、「熟議民主主義も困難な問題を扱える」ことを示すことから、さらにもう一歩進んで、「扱える」とする諸見解の興味深い議論なのですが、「深刻な不合意」を熟議がどうして扱うことができるのかについては、より掘り下げた議論が必要であるように感じられました。とりわけ、「深刻な不合意」を扱う熟議のための条件の検討は、そのような条件をどのようにして実現するのかという問題を伴うが、そこでは結局、(ドライゼックが言うような)戦略的なアクターの役割を認めるしかないのではないかとも思われます。また、そもそもドライゼックが、問題解決のみに焦点を当てているというのは妥当な理解なのかという気もします。
 というようなことを、コメントとして(もう少し詳しく)書いてみました。