読書

以前に、訳者の一人odgさんに頂いていた本。とくに第4章「国家概念の再利用」を重点的に読む。

国家論のクリティーク

国家論のクリティーク

近代資本主義社会における、構造的に決定された国家の位置から、国家の偶有的性質が生じる。その背後に統一性か多様性のいずれかを発見することは可能であるが、それらを同時に見出すことはできない。よって〔選択支配下の二つしかない〕、われわれは、国家内に相争う多数の勢力を見出すことになるが、これは国家のアウトプットのもつ明白な一貫性について理論的に明確な理解をする手段を何らもたらさない。さもなくばわれわれは、意識的にせよ無意識的にせよ、この統一性と政策がもつ明白な一貫性を説明するのに役立つ、秩序と一貫性の原理を想定せざるをえない。この後者が、マルクス主義国家理論が残した分割不可能な残余である。(224-225頁)

 「構造主義者は知らぬ間にではあるが容易に、頑固な国家論者に成り果てる」(224頁)という著者の指摘は、(そこで参照されているvan der Bergの本にもかなり示唆を得ていると思うが)恐らく正しい。だから、B・ジェソップなどは、下のエントリのように、「戦略」(と構造)の相互作用という観点に進んだのである。
 ただ、構造主義マルクス主義国家論が意図せざる形で「頑固な国家論者」になるだけとは限らない。何人かの論者は、国家はそれ自体の利益に従って資本主義社会を維持しようとするものの、その制御能力には限界があるという指摘に進み、そこから国家の相対化→市民社会への注目という方向に進むからである。70年代後半から80年代にかけてのクラウス・オッフェの議論などは、そのようなマルクス主義的国家論の一つの道筋を示している・・・というのが、以前の僕の研究での議論だった。
 それにしても、現時点でマルクス主義国家論にどのように向き合うことができるか、これは大いなる難問なのだ。って、「いや、向き合う必要などないよ」といわれればそれまでなのですが、いや、そこをもう一つ何とかならないかな、と思っているわけで。