読書『社会制作の方法』

 北田さんから『社会制作の方法』(勁草書房、2018年)を頂いた。北田さんが1998年から2010年までの間に書かれた、主に理論的な論文をまとめ直したもの。それらの考察を通じて、現在の北田さんがどのような地点に到達したかということが、ポイントになる。(なお、以下の叙述は、本書の第1部、第2部は読まずに書かれています(以前に呼んだことがある論考は含まれているけれど)恐らく本当は、「実在」についての話は特に第1部を読んでから書くべきである・・・と認識しております)。

社会制作の方法: 社会は社会を創る、でもいかにして? (けいそうブックス)

社会制作の方法: 社会は社会を創る、でもいかにして? (けいそうブックス)

 その到達点は、「序 『社会学の根本問題』と社会問題の社会学」に書かれている。ここでは、社会学におけるwhatとhowの区別という視点が導入される。whatは、社会がどのような状態であるのかという(おそらく)経験的な問題とともに、どのような状態である「べき」かという規範的な問題を含んでいる(と思われるので、私はこれをwhatだけで言い表すことが適切なのかどうかについては、やや疑問を持っている。政治理論ならば、oughtという区別も必要だと言うだろう)。これに対して、howは、社会状態がどうである(べき)かという問いを「括弧入れ」(というのはつまり、直接に問わずにおくということ)した上で、どのように当該社会状態が成り立つに至ったかという問題を扱う。howの問題に取り組む研究は、その研究対象の社会状態がどのようなものであるかはもちろん、どのようなものであるべきかを検討することなく(括弧に入れて)、どのようにしてそこに至ったかのプロセスを記述する。
 こうしたwhat(+ought)とhowとは、パーソンズ以後に分岐したとされる。そこで、この本『社会制作の方法』の課題は、もう一度その分岐を克服するべく、「そうしたhowの方法にこだわる経験科学であるからこそいえるwhatのあり方」を模索することである(8頁)。
 上記で言われていることが最も直接的に取り組まれているのは、第3部、特に第9章「社会の討議」、第10章「社会の人権」だろうと思う。この二つの章では、「討議(熟議)」や「人権」といった規範的(ought)な概念が、規範的政治哲学ののようなやり方でその意義を「正当化」されるのではなく、それらは機能分化した社会において機能的に不可欠な要素であるといった形で記述されつつ擁護される。つまり、それらは、単になんらかの根拠から「望ましい」ものなのではなく、(おそらくこのような言い方は慎重に回避されていたとは思うが、わかりやすい表現をあえて用いると)「社会」にとって(人間にとっての「望ましさ」云々にかかわらず)不可避的に必要なものなのだ、という形で、ある種の「正当化」が試みられている。それが規範的な正当化とは異なるのは、「現存しない(または十分な形では現存しない)かもしれないけれども、望ましいもの」として「正当化」されるのではなく、「実は現存しており、それは単に人々にとって望ましいからではなく、『社会』自体が必要としているのだ」と言った形で「正当化」されるからである。
 ちなみに、第9章では、私の討議(熟議)擁護論とは異なるものとして、この「正当化」論が提示されているが、実は(?)私自身も、こういう「社会にとって必要なのだ」論法は嫌いではないというか、むしろこれを規範的政治哲学とは異なる「正当化」のやり方として位置づけることができないかと考えている。それで思い出したのは、かつて拙著『国家・政治・市民社会――クラウス・オッフェの政治理論』(青木書店、2002年)で、オッフェの1989年の論文を参照したことである(同書、第9章)。私は、この論文でのオッフェの「複雑な社会とその部分システムとは、『責任倫理的な』大衆の志向性への……顕著な機能的要請を示す」という言明などを参照して、「責任倫理」は、道徳的・倫理的規範として望ましいだけではなく、社会システムにとっての機能的観点からも必要なものとして論じられていることを述べた(田村 2002: 216-217)。
 これが本当に、規範的政治哲学とは異なる「正当化」の論法なのかどうかは、なお検討が必要なのであろう。筆者が「あとがき」で、「実は曖昧なままに残している『機能主義的正当化』については、別の形で引き続き考察を進めていくこととしたい」(342頁)と述べているのも、このようなことを意識しているからではないかと思われる(確証はないけれど)。今あらためて「ああ、そうか」と思ったのは、北田さんが『責任と正義』でこの拙著について好意的なコメントを書いて下さったことである。それは、上記のようなこと、つまり「機能主義的正当化」的な論法を、オッフェないしそれを参照した私が拙著で書いていたからだろう(と思う)。

国家・政治・市民社会―クラウスオッフェの政治理論

国家・政治・市民社会―クラウスオッフェの政治理論

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

 書いたついでに敷衍すると、「熟議」について、まさにこの種の機能主義的正当化を考えることができるだろう。しばしば、熟議の肯定論は、何らかの道徳的・倫理的根拠との関連でその望ましさを正当化しようとする。しかし、このような道徳的正当化論は、他方で、「理想は結構だが、現実には不可能」といった否定(懐疑)論に直面しがちである。そこで一つのやり方は、「いやいや、それは不可能な理想論ではなく、実際に実現し得るのだ」ということを示すことであろう。この場合、ミニ・パブリックスやより実験的な環境での実験を通じて、「望ましい熟議の現実性」を示すことになる。
 しかし、「機能主義的正当化」の観点からは、別の議論を目指すことになる。例えば、議会外での熟議をフォーラムが一定の権限を持つことに対して、「議会制民主主義の軽視」「正統性の欠如」といった批判がなされることがある。これに対して、「機能主義的正当化」の観点からは、むしろ議会や政治家は、意思決定のためにむしろ議会外での熟議を必要とするのだ、といった論法があり得るだろう。あるいは、「『私的な』日常生活において熟議などうっとおしいばかりだし、そもそも不可能である」といった批判論に対しては、いやいやむしろ、私たちの日常生活は日常的な熟議によって成り立っている部分があるのではないですかと、経験的に示していく、ということが考えられる。
 先の段落での、特に後者の事例は、北田さんが本書で「実在」にこだわっていることを示す例にもなっているのではないかと思う。著者が「実在」にこだわる理由の一つは、(反実在論的な)構築主義ではwhatの問題に取り組むことができないからであろう。しかし、だからといって著者が文字通りの「事実」を把握するためだけに「実在」を強調しているのかというと、私にはそうは思われない。もちろん最終的には第1部を読んでから判断するべきことだということを断った上で述べるならば、「実在」は、ある社会状態(やその要素)を道徳的に正当化するのではなく、機能主義的に正当化するために必要なものなのであろう。この投稿の冒頭で、北田さんのwhatにはoughtも含まれているということを述べた。このことは、whatの意味をわかりにくくしている面がある。しかし、北田さんにとっては、whatとoughtを結びつけることが不可欠だったのではないか。