投票に行くことについての雑感

〔注:以下は、あくまで走り書きの雑感・メモです〕
 投票に行く/行かないということについて、最近、次のような指摘が見られる。つまり、若い世代の中には、「自分は政治についての十分な知識も判断力もない。そんな自分が投票に行くのは、無責任である。だから、投票には行かない。」という考えがあるというのである。
 たとえば、社会学者の富永京子は、ある新聞記事の中で、次のように述べている。「私も学生時代はそうでした。自分が何かを選ぶことで、選ばなかった何かを否定し、「踏みつける」ような気がして怖かった。投票しなければ、誰も傷つけずにすむと思っていました」。この発言が最初に紹介したような「考え」と全く同じことを指しているとは言えないだろうが、それでも、「うかつに判断・選択することが、ネガティブな結果をもたらす可能性を憂慮し、そのような判断・選択を控えることにある種の道理性を見出す」という点では、共通している部分があると思われる。
 富永はあえて「判断を棚上げしているヌルい自分」と書いている。しかし、ここでは「判断を棚上げ」していると言えるのだろうかということについて、少し(ざっくりと)考えてみたい。
 私がこの「投票に行くのは却って無責任」「うかつな判断・選択は無責任」論に接して思い出すのは、大学進学について次のように考える高校生がいる、という話である。最近では、大学進学について、「自分が将来何になりたいかよく考えて、それに適した大学・学部を選びなさい」といった形での「進学指導」がなされる。その結果、「自分が将来何になりたい」のかよくわからない生徒の中には、「私はなりたいものがない/わからないから、大学には行かない」と言う人が出てくる、というのである。このような理由で「大学に行かない(と言う)高校生」と、上記の理由で「選挙に行かない若者」とは、よく似た思考回路を持っているように思われる。
 これらの人たちは、「判断を棚上げしている」のだろうか。私には、このような人たちは、「自分で」考えて「判断」したのだと思われる。そう、この人たちは、ある意味で「自分で」考えて、自分で決めている。
 思い出すのは、ウルリヒ・ベックらの提唱した「個人化」論である。ベックらによれば、かつては人々は判断・選択を行う時に、何らかの集合的な準拠枠組に依拠することができた。「階級」「共同体」「伝統」「家族」などは、その例である。あるいは、それらと重なるが人々が共通に抱いている通念(共有された意味)も、集合的な準拠枠組と言えるだろう。
 「私は労働者階級に属するから、社会主義政党に投票する」とか、「うちのムラではみんな〇〇党支持だから、私も〇〇党に投票する」といった判断は、純粋に「個人的に」行われているのではなく、「階級」「共同体」といった集合的な準拠枠組に依拠することで行われている。「普通は大学に行くものだから」という理由で大学進学や受験先大学を決めるのも、ある種の集合的な準拠枠組に依拠して行われる判断である。
 「個人化」とは、こうした集合的な準拠枠組に依拠することができなくなり、「自分で」判断しなければならなくなることを意味している。それには、メリットもあり得る。集合的な準拠枠組は、個人の「選択の自由」を認めない。私が本当は別の政党に投票したいと思ったとしても、準拠枠組が強力な状態では、それこそ「村八分」を恐れて、「自由な選択」ができないかもしれない。「本当はA大学に行きたかったけれど、学校が強力にB大学をと言うので、A大学を受験できなかった」ということもあるかもしれない。つまり、集合性や集団の存在は、個人にとって抑圧的に作用する可能性がある。これに対して、個人化した社会では、個人は文字通り「自分で」決められるようになるのである。(やや誇張気味に言えば)どの政党に投票しようとも、村八分になることを恐れる必要は低減する。A大学に行きたいというあなたの意志は、可能な限り尊重されるだろう。個人の選択は、文字通り個人で行うものとなり、その結果も、個人の選択の結果として尊重される。
 しかし、同時に個人化は個人に負担感ももたらす。「自分で決めなければならない」という負担感である。良かれ悪しかれ、集合的な準拠枠組があれば、「自分だけ」で決めなくてもよい。ところが今や、誰かが/何かが決めてくれるわけではなく、すべて「自分で」決めなければならない。しかも、その選択・決定の結果への責任も、「自分で」負わなければならない。しかし、そのように「責任」をと言われても、そもそも「自分だけ」で確信をもって決めることなどできるのだろうか。決めることができないと(自分では)思っているのに、形の上では「自分で」決めたということにされ、さらには、その責任は自分で負うのだと言われても・・・という話にはならないだろうか。ベックらの個人化論は、個人の選択の自由を楽観的に礼賛していると見られる時もあるが、決して、そのような議論ではない。むしろ、個人が選択できるようになることに伴う困難も指摘しているのである。
 以上の個人化論に鑑みると、「投票は却って無責任」「将来について見定められないので大学に行かない」という人々の考えも、個人化社会では大いにあり得ることなのではないか、という気がしてくる。そのような人々は、「自分で決めなければならない」ということを真剣に受け止め、その結果として、「結果に責任を負いきれない」「進学すべき理由は見つからない」と「判断」し、投票の棄権や大学受験取りやめを「選択」しているのではないだろうか。
 以上の話は、もちろんデータ的な裏づけがあった上の話ではない(だから「雑感」である)。しかし、仮に「もしもそうだとすると」と想定して話を進めると、こういうことになる。投票に行かない/大学進学を目指さない人たちの中には、「個人」で考えるがゆえに、そういう結論を得る人がいる、ということである。そうだとすれば、もしもそのような人たちに、投票/受験を選択させたければ(注:ここでは、投票/受験を必ず選択させるべきだ、と言っているのではない)、「個人の判断」の重みを緩和する必要性があるだろう。もしも投票/受験が「あなただけによる判断」とは言えなくなれば、その結果に「あなただけ」が責任を負う必要もなくなる。そうすれば、「あなた」は安心して、投票に行き、大学進学を目指すことができるかもしれない。
 それでは、「個人の判断」の重みを緩和するにはどうすればよいのだろうか。これまでの議論からすれば、そのためにはもう一度集合的準拠枠組を復活させることが必要、ということになる。集合的準拠枠組に依拠した判断は、純粋に個人的な判断ではない。したがって、その結果も、個人だけが負うものとは言えない(はずである)。たとえば、「労働者階級だから」という理由で政党・候補者選択をした時には、その理由も結果も「労働者階級」としてのものだと考えることができる。「このムラでは」の理由での選択も同様である。「集合的無責任」という言い方もできるだろう。しかし、だからこそ「個人で」責任を負う必要もないのである。
 しかし、かつてのような意味での集合的準拠枠組を、現在復活させることが、可能なのか、また、そもそも望ましいのか、という疑問はあり得る。恐らく、それとは違う何かを考えなければならないのだろう。たとえば、以下のようなことが考えられる。


1)「現在的な」形での、集合的準拠枠組となるような人的つながりの形成
 「階級」「共同体」「家族」などが集合的準拠枠組となることが疑わしくても、もしもそれに代替する、たとえ暫定的であれ人々の集まりがあれば、そこで共有された何かが集合的準拠枠組となる可能性がある。簡単に言えば、「(自分の所属範囲での)『みんな』が行くから」投票に行く、という話である。
2)「個人の選択」を緩和するような共有された意味の創出
 一点目と重なる部分もあるが、集合的準拠枠組は、実体的なもの(具体的な集団)ではなく、「投票」や「受験」についての一定の範囲の人々が共有する意味という形でも成立し得る。そうだとすると、投票や受験の「個人の選択と責任」を緩和するような意味の流通が、新たな集合的準拠枠組となるだろう。
 たとえば、通常は個人の一票は良かれ悪しかれ「決定的な一票」とはならないが、このことを周知していくことは、「個人の選択」を重く捉えてしまう人々には有効かもしれない。選挙の結果は、「あなたの選択」の結果ではなく「わたしたちの選択」の結果なのだと認識できれば、「個人の責任」は相対化できるからである(しかしもちろん、この論法は、「だから投票には意味がないので、行かない」という人々には、あまり意味を持たない)。受験については、「大学・学部選択だけで将来は決まらないのだ」という話を流通させていくことが考えられるだろう。これは、最終的な決定の「先延ばし」だが、そのことによって直近の選択(受験)が可能になる。


念のために言うと、以上の話は、「人々は投票に行くべき」「大学を受験すべき」という立場でなされているわけではない。1)「投票しない」「受験しない」は、個人化した現代社会における「個人の選択」の重さの帰結かもしれないということ、そして、2)そうだとすれば、そのような人々が「投票」「受験」を選択するためには、「個人の選択」の重みを緩和することが必要なのだろう、ということを述べたに過ぎない。投票/受験の是非そのものは議論していない。
 

 以上、本当はもう少し目の覚めるようなアイデアがあればよいのだろうけれど、残念ながら直ちに思い浮かぶものはないし、そもそもこの記事は雑感・メモなので、この程度で。