指導生のことなど

 このたび、僕が大学院で指導教員を務めていた、梅川佳子さん(チャールズ・テイラーの研究)が、中部大学に着任することになりました。
 昨年度は、また別の指導生だった西山真司君も、およそ500頁・60万字の大著の博士論文「政治学において信頼を経験的に研究するとはいかなることか:政治的リアリティの日常的な構成に向けた政治理論」で、博士(法学)学位取得しました。
 どちらも、大変うれしいニュースです。
    

 自分が元々人に教えることが下手くそという認識があるので余計にそう思うのですが、大学院生の指導というのは難しい問題です。先日、別の大学・別分野のある先生とその話になりました。特に後期課程(ドクター)に受け入れることは、当該院生にとってもですが、受け入れる教員にとっても色々な意味で「リスク」があるのは間違いありません。後期課程に進学させてはみたけれども、思ったほどではなかったということもあり得ます。 
 まあでもねと、その先生は、およそ以下のようなことを言っていました。後期課程に進学させた人が「実はダメだった」ことが後でわかってしまうことがあるのも確かだけれども、他方で、入学しなかった/させなかった人が、実は伸びる人だったかもしれないということもある。前者の場合、「なんであんな人をいれたのだ(いい加減だ。無責任だ)」と批判されることがある。でも、後者は、(入学しなかった/させなかったがゆえに)結局本当のところはわからない。だから、批判もされない。
 だから、色々リスクはあっても、後期課程に受け入れるということはありなんじゃないかなという話だと、僕は理解しました。
 過去の院生で何人か、後期課後期課程進学を希望していたり、あるいは迷っていたりした人たちのことを思い出します。その中には、「これならば後期でやっていけるだろう」と思えるようになった人たちもいました。でも、それらの人は、修士で大学院を終え、それぞれの道を進みました。他の道でそれなりに充実した人生を送っているという話が聞こえてくると、「それでよかったのだろう」とも思いますが、「後期課程に進学していたらどうだっただろうか」と思わないでもありません。
 思い起こしてみると、後期課程ではありませんが、僕の大学院入学前後に同じ大学院を受験したが不合格となり、別の大学院に行って、現在はちゃんと研究者になっている人を、何人か知っています。もちろん、その方たちを「落とした」時には、それ相応の理由と判断があったわけです。でも、中長期的に見ると、ある時点での判断とは何なのだろうなとも思うわけです。
 上記の先生はまた、「僕の指導生には、僕と同じテーマ(熟議民主主義など)をやっている人は誰もいません。おかげで、しばしば院生に『こうじゃないの?』というと、『違います』と言われるし、何年かを経て院生から勉強してわかってくる場合も多いです」と言うと、「それはつまり縮小再生産じゃないということだから、いいことですよ!」と力強くおっしゃってくださいました。励ましていただいたのだと思います。
 大学院生を指導するのと、(自分の)子どもを育てるのとは、同じようなところがあるような気がします(もちろん、全く同じとは言いません)。どちらも、こちらが力んで特定の方向に向けようとしても、そうなるわけではないし、その向かせようとしている方向が正しいかどうかも、簡単には判断できません。一定の助言をしたり枠組みを与えたり、「背中」(?)で示したりしつつも、結局は、本人(院生、子ども)自身の判断に委ねるしかなく、その結果、こちらが思っていたのとは異なる方向に進むことになるかもしれません。「育てる」とは、そういう不確実性を引き受けることなのでしょう。