山崎2015

頂いた山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』(岩波書店、2015年)所収のいくつかの論文を読んでいる。ここでは、山崎さんの「『奇妙なナショナリズム』と民主主義」について、(別所でも書いたけれど)感想をメモしておく。

山崎論文では、「政治的なもの」は基本的には埋め込まれるべきものと想定され、それとナショナリズムとの関係が検討される。政治的なものの埋め込み=ある種の安定性の確保、その脱埋め込み=不安定化→「奇妙なナショナリズム」への再埋め込み。
山崎さんの議論スタイルは、「政治理論」的な枠組み(友/敵としての「政治的なもの」)を用いて「現実」を記述するというものがメインと理解している。しかし、このスタイルには、なかなか難しいところがある。まず、経験的研究者からは、「エビデンス」が不十分な記述・分析と言われかねない。次に、規範的/哲学研究者からは、概念や理論そのものの分析をもっと精緻に行うべきといった疑義が提出される可能性がある。経験的研究者からの批判は、「現実」について述べていても、基本的にテキストの分析なのだ、という形を維持すれば回避できるかもしれない。ただ、山崎さんは、恐らくはあえて、テキスト分析だけの次元にとどまらない書き方をするので、こうした批判なり疑問なりを受けやすくなるだろう。
あと、うまく言えないのだけれど、山崎さんのような「政治的なもの」の使い方だと、それはむき出しにすると大変なもので、何とか適切に「埋め込まれる」べきものということになる。それはそうかもしれない。しかし、それだと「政治的なもの」に基づく「規範的な」構想にはなりにくいのではないか。
「政治的なもの」というのは、経験的に測定困難な概念という意味で(実証研究ではない)「政治理論的」な概念である一方で、政治理論としては、規範的構想の基礎となる概念ではなく、むしろある種の「リアリスト」(ただしこれは「実証的」とは違う)の旗印となりやすいものかもしれない。