雑感

 高校のことが話題になるにつけ、どうしても自分の出身高校のことを思わずにはいられなくなる。このブログでは時々書いてきたことだけれども、僕は、自分の出身高校が「個人の自由」を「学校」という枠組みの中で最大限保障する学校であったことを、今では本当によかったと思っている。
 ここで「個人の自由」とは「嫌ならばやらなくてよい」ということを含む。文化祭だろうが、スポーツ大会だろうが、「やりたい者はやる。やりたくない者はやらなければよい」というのは、素晴らしいことではないだろうか。それは、「旧制中学的なもの」とも違う「自由」である。それは、「積極的自由」ではなく「消極的自由」に属することかもしれない。しかし、「学校」において「消極的自由」を確保することが、いかに難しいことか。
 もっとも、かく言う僕自身は、(これも以前に書いたと思うが)バスケット部の活動を「やりたい」だけでやっていたとは言えない。だから僕は、バスケットボールを「やりたくて」やっているようにしか見えない何人かのチームメイトを、心からすごいと思うと同時に、少しやっかみもしていたように思う。自分は到底かなわない、と。
 それでも僕は、本当の共同性は各自の「自由」を尊重するところにしか成立しないのではないか、と思い続けている。筋の良い話なのかどうか、学問的にうまく言える話なのかどうかはわからない。でも、自分の人生において、このことを見失いたくないということだけは確かだと思っている。