再帰性と熟議

 現在出版準備中の『デモクラシーの擁護』の各章のゲラ(特にUさんの章)を読みつつ、再帰性と熟議との関係についてちょっと考える。
 拙稿「熟議民主主義における『理性と情念』の位置」『思想』2010年5月号では、熟議民主主義にとって、理性か情念かという問題は実は二義的であり、重要なのは、再帰性/反省性が確保されることである、といったようなことを述べた。
 しかし、逆から言うとどうなるだろうか。つまり、再帰性/反省性を確保するために、なぜ熟議でなければならないのか、と問うとどうなるだろうか、というのが問題。なお、なぜデモクラシーなのかは、とりあえず我々の本で全体的に述べていることなので、それはよし。問題は、いろいろなデモクラシーの仕組みや原理の中で、なぜにとりわけ熟議なのかを、もう一度考えるべきだろう、ということである。
 そのようなことを考えた伏線は、今月上旬のJohn Keane氏との会話にある。近年のキーン氏は、モニタリー・デモクラシーという言葉を提起している(「モニター」だったかもしれない)。要するに、決定をモニタリングする仕掛けを(国家だけでなく)社会のあちこちに多元的に存在している意思決定の仕組みに取り入れていくべきだという話である。彼は、会話の中で、熟議民主主義という概念を無理に拡張する(ストレッチ)よりも、むしろモニターの用語を使用していくべきだ、というようなことを述べていたのだった。
 多分、このことを(も)、今後考えていかないといけない。
 とりあえず、モニタリー・デモクラシーについてのキーン氏の論文は、下記のThe Future of Representative Democracyの中に収められている。実はまだ未読(イントロダクションだけ読んだけど)。

The Future of Representative Democracy

The Future of Representative Democracy