読書

頂いていた、小田川大典「アーノルドと教養――ヴィクトリア期における『啓蒙』」富永茂樹編『啓蒙の運命』(名古屋大学出版会、2011年)を読了。

啓蒙の運命

啓蒙の運命

 僕はもちろん、アーノルドという人のことを知らない。でも、この論文で著者が描き出す、アーノルドにおける「共同性の基盤」の所在の変化――普遍的な人間性から歴史的実体としての現実的=理性的な国家への変化――(335頁)の分析(つまり2節から3節にかけての叙述)は、とてもスリリングなものであると感じた。
 著者が結論部で示唆する、再帰的近代化が陥りかねない「『精神が自己と交わす対話』の無限地獄」と、それに対する「知性の健全な枠」をどのように考えることができるのかという問題は(336-337頁)、確かに現在の問題だと思う。以下、この点について、今、僕が言えることを述べてみたい。
 「精神が自己と交わす対話」と著者(あるいはアーノルド)が言う時、(僕の理解不足かもしれないが)個人の独白的な、あるいは内面的な「対話」が、主として想定されているように見える。アーノルドが『エンペドクレス』で描いているのは、「自己の意識の虜」になった状態から、果たして「唯一本物の、深く埋もれた自我」に至ることができるのかどうか、という問題のようである(323頁)。それができるのかどうかはともかくとして、ここで問題にされているのが、あくまでも「個人」としての「自我」である。つまり、この場合には、「対話」によって目指されているのは、「本当の自我の発見」あるいは「最善の自我」(330頁)の発見であろう。
 しかし、僕の考えでは、再帰的近代化の中での「対話」の役割とは、自我をめぐる無限後退を止めることにあるのではないだろうか。対話の中で自己を「反省」するということは、単にそのことによって――果たされることのない――「最善の自我」「本当の自分」を発見を目指すことと考えられるべきではない。そうした、「最善の自我」をめぐる無限後退の危険性を、人の発言に耳を傾けることを通じて、「自我」の中心性を緩和することによって食い止める可能性を持ち得ることに、今日における「対話」の意義は求められるべきであるように思う(もちろん、このように言うだけではラフすぎることはわかっているけれど)。
僕が熟議民主主義における「選好の変容」というアイデアに非常にシンパシーを持っているのは、恐らく自分が上記のような考えを持っているからだ。自分だけが一方的に「反省」を求められる状態は、「対話」とか「熟議」ではない(だから、北田暁大さんが、かつて、『嗤う日本のナショナリズム』で描いた、連合赤軍における「総括」は、熟議とか対話とは言えない。あそこで「無限の反省」を求められるのは、一方の人だけだったのだから)。相手の見解を受け入れていく「主体」(と、あえて書く)を想定することで、自我の肥大化/無限後退を緩和できることに、今日における「対話」あるいは(僕の言葉で言うと)「共通理解形成のための熟議」の意義はあるのではないだろうか。
 もっとも、そのような意味での「対話」なり「熟議」だからといって、精神的な安定ばかりをもたらすとは限らない。そこで僕の立場を(あえてごく簡単そうに)言ってしまえば、デモクラシーと対話の不可避性と、その負担の重さとの両方を見据え、「負担軽減」をどのように図ることができるのかという方向で考えていく、ということだろうと思う。人々が多様である以上、デモクラシーや対話が、失われた共同性や慣れ親しみの感覚を必ず与えてくれるという保証はない。むしろ、場合によっては、そうしたものの残滓を切り裂いてしまうかもしれない。人々の間の実際的・感情的距離を拡げてしまうかもしれない。それでもデモクラシーが他の手段よりも「まし」だとすれば、そこで考えるべきは、そうしたデモクラシーのもたらす負担感をどのようにして緩和できるのかということである。僕が、ベーシック・インカムを、あるいは現在準備中の原稿で「デモクラシーのためのナッジ」について考えているのは、こうした問題関心からだと言うことができる。
・・・と、著者の論文に刺激を受けて、ほとんど自分が生煮えで考えていることを「独白」するような文章になってしまったけれども、おかげで少し自分の考えていることが、すっきり見えてきたような気もしている。