院生たちと会う

 昨夜は、本山は文明館で、指導している院生たち(厳密に言うと、ODの人、博士課程修了済みの人を含みます。それから、制度的に言うと、僕は在外研究の期間は、直接の指導教員ではないです)と、食事会というか吞み会でした。新年会になるのかな。
 この一年くらいの間に、各自、それぞれに研究が進捗し、大変うれしく思っています。同時に、自分がいない方がうまくいくのかもなあ、とかちょっと思わないでもないです(苦笑)。
 いや、それは正確な言い方ではありません。正確に言うと、自分が行うコメントが、現在の方がより適切にできているように思える、ということです。日本で日々の職務をやっていると、どうしても狭義の研究あるいは大学院の教育以外のところに時間や関心が取られてしまいます。そのことで自分自身の研究に割くことができる時間と精神的余裕が失われるだけでなく(でも、これは仕方ない)、院生の指導が、どうしても後手後手に回りがちになってしまうのです。
 たとえば、こういうことです。院生、それもドクター級の院生になってくると、研究テーマは多様であり、必ずしもこちらの厳密な意味での「守備範囲」とは言えないテーマの人もいます。加えて、内容自体ももちろん高度になってきます。ただ、同時に、ドラフト段階では、構成・叙述等が必ずしもうまくできているとは限りません。そういう研究に対して、それなりにきちんとコメントできるためには、最低限、こちらもかなりの「研究モード」になる必要があります。しかし、「研究モード」になれる時間は、とても限られています。かつ、その限られた時間の中で、自分自身の研究も行わなければなりません。大学院生(特にドクターの院生)を指導する立場というのは、プレイング・マネージャーのようなものです。監督・コーチとして選手たちを指導する一方で、自らも選手としての(監督・コーチとしての、ではない!)最善のパフォーマンスを発揮しなければなりません(余談ですが、日本の大学の先生は、これら以外に、(野球で言うと)グラウンド整備から、チケット販売から、球団経営(フロント)まで、実に雑多な役割を同時にこなさねばならない立場にあると思います)。となると、院生のドラフトが出てきても、それを読むのに物理的に十分に時間を割けないだけでなく、限られた時間を院生のドラフト読み(と適切なコメントの検討)に十分に配分するための、こちらの精神的余裕もないということがあり得、その結果、きちんと読みこめない恐れも出てきます(誤解を招く書き方かもしれないので、念のため補足すると、読んでいないということでは全くありません。あくまで、程度ないし現在との比較の問題です)。
 ともあれ、この一年間に、いろいろとステップ・アップがあったことは、本当に喜ばしいことです。それを励みにして、各自、また次のステップを目指してほしいところですね。