ファインマン

 マーサ・ファインマンの『ケアの絆』(岩波書店、2009年)と、同『家族、積みすぎた方舟』(学陽書房、2003年)を再読も含めて読了。

ケアの絆―自律神話を超えて

ケアの絆―自律神話を超えて

家族、積みすぎた方舟―ポスト平等主義のフェミニズム法理論

家族、積みすぎた方舟―ポスト平等主義のフェミニズム法理論

 久保田裕之さんも、『ケアの絆』への書評(『家族社会学研究』第21号第2巻、2009年)で書かれているけど、『家族、積みすぎた方舟』の方が、著者の例の「母子対」への保障という議論が前面に出ていて、論争的(久保田書評は下記URLから読めます)。
http://www.jstage.jst.go.jp/article/jjoffamilysociology/21/2/21_249/_article
性的関係にある人々ではなく、ケアに関わっている人々を保障の単位と見なすべきだという議論そのものには、多分、僕はそれほど違和感がない。恐らく、違和感があるのは、現に存在する「ケアの絆」――それは、かなりの程度、メタファーではなく、実際の「母子」と想定されているのだが――に保障することが、「ケアをする人」を特定化し、しない人との社会レベルでの「分業」をかえって固定化してしまうのではないかということ、そして、その「分業の固定化」は、すなわち、男女間の非対称性の固定化ではないのかということ、だろう。
 著者の「ジェンダー中立的」な法改革への批判はよくわかり、「ケア」の価値をまともに承認すべきだということもよくわかる((男性の)経済的貢献をケアそのものと等しい貢献と見なすことへの批判も)。しかし、それに対抗するために、「ケアをしていること」を保障の対象にしてしまうことは、上で述べたような社会全体のレベルでの「性別分業」を固定化してしまわないかという懸念を、やはり持ってしまうのだった。