川崎 2010

川崎修『「政治的なるもの」の行方』(岩波書店、2010年)の後半に収められたいくつかの文章を読む。そのうちのいくつかは再読ということになる。

「政治的なるもの」の行方

「政治的なるもの」の行方

 第7章「自由民主主義――理念と体制の間」については、最初にこの論文を(『年報政治学』で)読んだ時よりも、今の方が、「ピン」とくる気がしている。そのうえで、僕は、「自由民主主義の理念の深化」(124頁)なのか、そうではない何かなのか、というある意味でポスト冷静以前的問題設定に、自分が足を踏み入れようとしているように感じている。
 第9章「リベラリズムの多義性」の最後に書かれた問題、つまり、「『自律できない』社会・『自律できない』個人を前にしたとき、リベラリズムに何ができるのか」(163-6頁)という問題は、今の自分の関心のある部分とかなり重なっている。
 第11章「丸山眞男における自我の問題の一断面」におけるエートスの扱い方は、自分のいくつかのこれまでの論文での議論の仕方がそれほど間違ったものではないことを認識させてくれた。「たしかに、「個人析出のさまざまなパターン」論文に明らかなように、近代化におけるエートスと社会の関係は一方的な規定関係ではなく、相互規定的なものとして論じられている。しかし、その意味するところは、近代化における相対的独立変数としてのエートスの強調であって、エートスの社会的存在拘束性の方ではない。ではエートスは何で決まるのか。主体的決断や教育だけで決まるのか。この問題は丸山にとっての一つの重大なアポリアであり続けたのではないだろうか。」(226頁)


 なお、同じく11章で参照されている『丸山眞男講義録[第三冊]――政治学一九六〇』(東大出版会、1998年)も、いつか読まねば・・・と思ったら、ちゃんとこっちの図書館に入ってくるようだ。

丸山眞男講義録〈第3冊〉政治学 1960

丸山眞男講義録〈第3冊〉政治学 1960