戻りました

そして、オーストラリアに戻りました。名古屋→香港→シドニー→キャンベラです。
今回の往復は、行きも帰りも、フライトでハプニングがありました。7月にオーストラリアを出るときも、ウェブ・チェックインで指定されたフライトの一部が間違っていたため、出発前日の夜に大慌てしたわけですが、ハプニングはそれだけでは終わらなかったのです。昨日、中部国際空港を出発する時にも、またハプニングがありました。
簡単に言うと、予約便がいつの間にか変更されていて、それに気づいていなかったのです。午前中の便だと思って空港に着くと、チェックインの際に、「夕方の便に変更になっています」と言われ、「!!!???」となりました。その変更された便だと、シドニー着が5時間くらい遅くなります。基本的には構わないのですが、ただ、シドニー→キャンベラの飛行機がバージン・ブルーという(やや)格安会社の便で、名古屋→香港→シドニーの便と別でチケットをとっており、かつ、24時間前まででないと変更はできない(つまり手遅れ)ということが分かったので、その点が憂鬱でした。
だったのですが、結局、ギリギリのところでキャンセルが出て、(こちらの)予定通りのフライトで出発できました。ただ、香港までは3列席の真ん中、香港→シドニーも二人席で両方座っているなど、お客さんが多かったですが。でも、意外にフライトは疲れませんでした。


で、その後は、まあぼちぼちの旅で無事にキャンベラの自宅に到着。ここに戻ってみると、それはそれで異国の地に来たような感じはあまりしないのは、10か月も既に滞在していた成果でしょうか。バッテリーが上がっていないかと心配していた車も、全く問題ありません。子どもたちがいないこと以外は、何も変わっていないように思えます。
でも、その子どもたちがいない・・・というのが、やっぱり寂しいですね。玄関先を見ると「父さん、ハンドボールしよう!」という長男の声が聞こえてきそうだし、食事をしていたテーブルに座ってこうやってパソコンに向かっていると、正面と左隣に子どもたちが座っていそうな気がします。でも、やっぱりいないわけです。


今年1月に子どもたちが来る前の4カ月、独りだけで暮らしていたわけで、その状態に戻っただけとも言えます。でも、不思議なことに、1月より前に自分がどうやって一人でこの家で暮らしていたのか、あまりうまく思い出すことができません。

いえ、もちろん、何も記憶にないわけではないのです。12月に、だいぶ追い込んで文献を読み論文を書いていたことはよく覚えていますし、語学学校に通っていた時のことも思いだせると言えば思い出せます。


でも、何というか、「ホーム」の記憶が十分ではありません。その時も僕はこの家に住んでいましたが、でも、「ホーム」ではなかったのかな、という気がします。大学に遅くまでいると、家は、晩御飯を食べ、眠るためだけに戻るような感じになります。家にいても、論文のことが常に頭にあって、それが中心なので、ご飯も適当に簡単に済ませてしまいます。つまり、「ホーム」というよりも「オフィス」度合いがずいぶん高いのです。子どもたちがいれば、勉強をしていても、ある程度は彼らのことを気遣っています。食事作りも、お風呂も、寝る時間も、もちろん朝の準備も全部気にしていなければなりません。そして、もちろん、ちょっと忙しい時でも、一緒に遊んだり、話をしたりもします。次男は、寝るときに、背中を掻いて/なででもらうのが大好きなので、寝るときはベッドルームに行かないといけません。面倒な時もあるのですが、僕にとっては、これらがあることで「ホーム」が形成されていたように思います。


そして、もちろん、家の「明るさ」が違います。不思議なもので、子どもがいるだけでカーテンを積極的に開けようという気になります。夜になっても「明るさ」は違います。これは、いろいろ会話している声が聞こえることが大きいのかもしれません。こういう「明るさ」が失われてしまうなあ〜、と思うと、やっぱり寂しく思うのです。


代わりに手に入るのは、「自分の時間」でしょう。何度か書いていると思いますし、このエントリの上の方で書いたことも関わりますが、こちらで独り暮らしと父子生活をやってみてあらためて感じるのは、独りでいるときには、基本的にすべてのアテンションを「自分のこと」に向けられる、ということです。言いかえれば、ケア=他者への気遣いをしなくてもよい、ということです。そのことは、間違いなく研究をはかどらせます。何しろ、そのことだけ考えていればいいのですからね。


ケアの時間帯とそうでない時間帯をきっちり精神的に区別できる人もいるかもしれませんが、僕はできません。確かに、6か月の間にだいぶ子どもたちと一緒にいながら研究することに慣れたとは思います。それでも、もし独りでいれば、研究はもっと進めることができたことでしょう。。「自分のこと」と「ケア」との間でバランスをとると、やっぱり前者は中途半端になります。僕は、短期間で集中することで作業が進むタイプではなく、だらだらとあれこれ見たり考えたりする時間を長く過ごす中で、アイデアや議論の展開が見えてくるタイプなので、なおさらです。


もちろん、独りでいるからと言って、ずっと勉強しているわけではなく、「息抜き」も多々しているわけです。でも、その「息抜き」も、完全に自分のペースでできるのと、そうでないのとでは、やっぱり違います。


さて、ぐだぐだ書いていても仕方ないので、このエントリは、ぼちぼち終えます。僕は研究者であるとともに、夫であり、父親でもあるつもりです。だから、「自分の時間」と「ホーム」のどちらを大事にするべきなのか/するべきだったのか、今でも悩みます。でも、最終的には、ギリギリのところで「自分の時間」を(ファカルティだけではなく)家族にも無理を言って認めてもらいました。40を前にして、研究者としてもう一回り成長するための、いや、正確には、「成長」というよりは「劣化」を食い止めるためのと言うべきかもしれませんが、機会を逃してはならないと思ったからです。だから、あと一年間の「自分の時間」を大切にしようと思います。同時に、名古屋の、そしてたった半年間だけキャンベラに存在したもう一つの「ホーム」も忘れないでいようと思います。


また明日から新たな生活です。