Fitzpatrick 2005

  • Tony Fitzpatrick, "The Fourth Attempt to Construct a Politics of Welfare Obligations," Polcy and Politics, Vol. 33, No. 1, 2005.

まだ途中だけど、著者は、協働が不可避であるがゆえに、その協働の中身を作るための「権利」が、協働のシェーマが生み出す「特定の」義務(たとえば、「生産的貢献」@Whiteなど)よりも優先するのだ、と論じている。協働の不可避性から「権利」を言えるのか、というところが気になるのだけれど。。。
【追記】
読了。
○相互依存は私たちの社会の「動物的な次元での事実(brute fact)」であり、互いに近接して住む以外の方法は存在しないが故に、私たちは互いに協働する義務を負う。これが「メタ義務」。しかし、この「メタ義務」は特定の/個別的な義務と同じではない。「メタ義務」に従いつつ、私たちは、個別的な社会的な諸義務がどのようなものかを決める「根本的な権利」を持っている。そのような権利を持つ理由は、私たちのメンバーシップが「動物的なもの」であるという事実に由来する。よって、まず「メタ義務」が「権利」に先行し、「権利」は「個別的な諸義務」に先行する。
まあ、どうしてメンバーシップがbruteだったら「権利を持つ」と言えるのかは、やっぱりよくわからない感じですが、フィッツパトリックらしいことはらしい。
フリーライダーについての記述(p. 26)
私たちは誰もが、ある時点、ある観点からするとフリーライダーである。そうだとしたら、フリーライドの機会を減らそうとすること(←著者いわく、これがS. WhiteとRawlsの戦略)は、協調の観点から望ましいとは言えなくなる。なぜなら、互いにフリーライドし合うプレイヤーたちの間では、back-scratching social exchange(持ちつ持たれつの社会的交換?)という形態で、一種のしっぺ返しゲーム(の形での協調)が成立する可能性があるからである。それは、相手が「目をつむってくれた」お返しに私も「目をつむる」という形で協調が成り立ち得るということである。よって、フリーライディングも、相互依存(協調)に貢献し得る。
・・・なるほど、そういう見方もあるかと思った次第。