査読云々の続き

下のエントリで書いたことの続きです。
といっても、ばらばらと、ですが。僕が主に念頭に置いているのは、あまり「サイエンス化」されていない分野ですので、「全然違うよ」と思われる人も多々あるやもしれません。その程度のものとして、お読みください。


 査読雑誌への投稿中心になっていくということは、指導教員の指導範囲というか指導責任みたいなものが弱まることを意味していると思います。
 従来的なやり方だと(この「従来」が一般的ではない可能性もありますが)、院生が紀要に載せる場合には、指導教員の何らかの形での許可が必要だったのではないかと思いわれます。しかし、学外の他の雑誌への投稿の場合は、仮に指導教員がOKと言ってから出すとしても、査読でどうなるかわからないわけです。
 となると、公刊の最終的なオーソライズは、指導教員によってではなくて、広い意味での「学界」としてなされるということになるわけですね。
 この発想を進めていくと、博論の審査も、指導教員を核として学内(研究科内)の教員中心で行うことの見直しも必要であるような気がします。つまり、博論の準備過程における刊行論文は「学界」として評価されているわけですから、博論も当然「学界」として評価されるべき、ということになるのではないでしょうか。
 たとえば、当該院生が指名する研究科内外の研究者が審査にあたる、その際、指導教員であっても審査メンバーには入らない、ということが考えられます。まあ、それは極端だということであれば、指導教員は入るとして、あとは学外をむしろ標準とする、その分野の研究者、というくらいのほうが適切かもしれませんが。
 もちろん、現在でも、学外の研究者が審査委員に入ることはあるはずですが、というか制度的には可能となっているところが多いと思うのですが、実際にはあまり一般的ではないのではないかと推測します(あくまで推測ですが)。それを一般的にする、ということですね。
 日本の文脈だと突飛な感じもするし、この忙しいのに突発的な仕事が増えるのは勘弁と思われる人も(多々?)いると思います。でも、今でも、たとえばいわゆる「論文博士」の審査は比較的突発的に発生します。それに、繰り返すようですが、査読誌を発表の場の中心にして行くということが、学部・研究科単位から学界単位へと業績評価の単位を変えていくことを意味するのだとすれば、博士論文もその例外ではない、と考える方が筋は通っていると思います。
 さて、このことによって、どのような帰結がもたらされるでしょうか。ここでは二つのことを指摘しておきたいと思います。
 一つは、良くも悪くも徒弟制的な要素が(一段と)弱まるだろう、ということです。「指導」というよりはアメリカ風に「アドバイザー」と言った方が適切になるかもしれません。そのことによって、まず院生サイドでは「指導教員と合わない」がために行き詰るということが少なくなる可能性があります。あるいは、行きすぎた「指導」で苦しんでいる人にも朗報のはずです。次に教員サイドでは、ドクター院生を持つことの物理的・心理的負担が軽減される可能性があります。現状では、最終的な責任を一手に負う(もちろん制度的にはそうではありませんが、心理的にはそれに近いでしょう)ことになっていますが、それが軽減されることでしょう。もちろん、以上の諸点を「メリット」と考えるかどうかは、人によって見解が分かれるところだと思います。とりわけ、教員サイドについては、そうでしょう。
 もう一つは、それぞれの研究科の「学風」とか「個性」が(そういうものがあるとして)希薄化するかもしれない、ということです。とりわけ、人文系ではまだそういうものが強く残っているところも多いと思いますが、学外の審査委員が標準ということになると、それが薄れて、どこでも同じような「学風」へと画一化される可能性があります。ただし、この点については、別のもう少し楽観的な見方もできるかもしれません。つまり、学外の審査委員も、当該大学(あるいは指導教員)の「学風」を考慮に入れて審査を行うかもしれません。そうだとすれば、審査委員を務める側にとっても、多様な「学風」を知り、(できれば)尊重するためのよい機会が提供される、と言うこともできるかもしれません。


 以上、少々突飛な話ではありましたが(しかし欧米ではそれほど突飛ではないというか、むしろ標準的な話では?)、査読付雑誌への投稿を標準と見なすならば、それに伴っていろいろ他にも考えるべきことも出てくるだろうという話の中の一つのトピックでした。