Habermas 1992=2002

ハーバーマス『事実性と妥当性(上)』未來社、2002年。第4章「法の再構成(2)」より。
 実践理性の「プラグマティック使用」「倫理的使用」「道徳的使用」の区別に関わるあたり。法をめぐる討議では、「道徳的使用」以外の水準+妥協も、重要な意味をもつ。その際、「コンテクストの事実性」が討議に入り込む。

つまり法規範は、道徳規範と同等の抽象度をもつのではない。法規範は一般に、すべての人間にとって何が等しく善いかを語るものではない。法規範は、具体的法共同体における市民の生活連関を規律する。その場合、繰り返し生ずる類型的な行為紛争を正義の観点から規律することだけが重要なのではない。規律が必要なのは、実践理性の道徳的使用を求める問題にはかぎられない。法という媒体は、集合的目標の組織的追求と集合的財の保証を必要とする問題状況についても要求される。それゆえ、根拠づけ討議〔Begruendungsdiskurse〕と適用討議〔Anwendungsdiskurse〕は、「実践理性の語用論的〔pragmatischen〕使用」に対しても開かれているのみならず、なにより「実践理性の倫理的−政治的使用」に対して開かれていなければならない。理性的な集合的意志形成が具体的な法プログラムを作成しようとすると、そうした意志形成はたちまち正義の討論の枠を超えてしまい、自己了解と利害の均等化の問題を考慮しなければならなくなる。(カギカッコ内は、原文イタリック、邦訳傍点)(186-187頁)

 道徳的−実践的問題の合理的決定を可能にする論証規則は普遍化原則に立脚しており、それゆえ、討議理論的解釈〔diskursethischer Lesart〕によれば道徳規範は純粋に認知的な妥当要求をともなう。法規範もまた、その制限された妥当領域を別とすれば、道徳規範と「一致する」〔原文イタリック〕、つまり道徳規範と衝突しない、という自負をもつ。しかしこの場合、道徳的根拠は「十分な」選択性をもたない。法規範が道徳的根拠によるのみならず、語用論的〔プラグマティックな〕根拠と倫理的−政治的根拠によっても正当化されえ、場合によっては公正な妥協〔ein fairer Kompromiss〕という結果で終わりうるとしても、法規範は妥当である。法規範の根拠づけにあたっては、全面的に実践理性が用いられねばならない。しかしながら、そうした「広範な」根拠はコンテクストに依存しており、相対的な妥当性しかもたない。〔というのも〕集合的自己理解は、所与の生活形式の地平の内部でのみ確実であるにすぎない。〔また〕どの戦略を選択するかは、設定された目的との関連でのみ合理的であるにすぎない。〔さらに〕妥協は、所与の利害情況との関連でのみ公正たりうるにすぎない。これに相応する根拠は、法共同体の歴史的で文化的な特質にもとづくアイデンティティにかかわるものもあれば、構成員の価値志向・目標・利害状況にかかわるものもある。〔したがって〕理性的な集合的意思形成の経過における態度と動機が論拠にもとづいて変更されることが前提されているにせよ、既存のコンテクストの事実性が度外視されることはない。もし度外視されるようなことがあれば、倫理的・語用論的闘技であれ妥協であれ、その基盤を失うことになってしまう。法共同体のこのような「意思の事実的基盤」との関係を有しているからこそ、意思的要素が、(社会的義務ではなく)法規範の妥当性の意味に入り込む。法的妥当性の妥当性の要素を示す「正統性」という述語は、当為妥当性の次元における「道徳性」との違いを表わす。妥当な道徳的規範は、討議理論的に解された正当[gerecht]の意味で「正しい[richtig]。たしかに妥当な法規範は道徳規範と調和する。しかし妥当な法規範はそれだけではなく、法共同体の真の自己理解、つまり共有された価値と利害の公正な考慮および戦略と手段の目的合理的な選択を表現するという意味で、「正統[legitim]」である。(〔〕内は補足。[]は邦訳通り。「」は基本的に邦訳カギカッコ、原文でもカッコに入っているもの)(188-189頁)

事実性と妥当性(上)― 法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究

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Faktizitaet und Geltung: Beitraege zur Diskurstheorie des Rechts und des demokratischen Rechtsstaates

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