ユルゲン・ハーバーマス『討議倫理』法政大学出版局、2005年(原著1991年)。
- 作者: ユルゲンハーバーマス,J¨urgen Habermas,清水多吉,朝倉輝一
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2005/11
- メディア: 単行本
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今までハーバーマスは「面白くない」(が、ちゃんとしたことを言っている)と思ってきたのだけど、それは単に自分の勉強・知識不足のせいだということがわかった(いまごろ……)。
ちゃんと読まないとね。ちゃんと。
とりあえず、メモしておく。
理性的意志形成というものは、さまざまな立場が議論によって変りうるものであって、
批判可能な妥当性要求についての間主観的承認だけを目指すものであるが、このような理性的意志形成のもつ討議的性格は、(前者のケース〔ロールズ的契約論〕では合理的判断のために)後者のケースでは共感的理解をおし進めるために、なおざりにされてしまう。(64頁)
というわけで、
感情移入を高めようとする傾向が貫徹しているところでは、道徳的な事態に際しての公正な判断の手続きとして、理想的な役割取得の認知的意味の方は、損なわれざるをえないことになるものである。(64頁)
しかしながら、コールバーグに反して、
役割取得モデルを、はじめから討議モデルの意味で解釈し直すこともありうると思う。(65頁)
ハーバーマスは、ミードによって「十分な手がかりが与えられている」というのだけど、その詳細は、『コミュニケイション的行為の理論』をあらためて読めば、わかるだろうか。
まあ、結局、問題は、どうして「感情移入」ではダメなのか、という点。ハーバーマス的には、それでは結局のところ局所的なものにとどまり、「すべての当事者」への普遍化まで達することはできないからということだろうと思うが、感情論者ならば、それを知った上で、しかし(言うところの)局所的なところからでなければと動機づけが獲得できないのだからそこから始めるべきであり、その上で、できるだけその局所性の範囲を広げていくような方策を考えるべし、と言うんだろうなあ。で、それに対して、ハーバーマスは、我々の「ポスト慣習的社会」では、我々はすでに抽象的な道徳原理に従う能力を身につけているのだ、あるいは、その条件が存在しているのだ(から、動機づけ問題など関係ない)という風に言うんだろうか。