大学院生事情

先日、某先生と話をしていて、その先生曰く、「博論を書くというのに、これまでに書かれた博論(を元にして出版された本)を読んでいない、という院生がいるんだよ」と(多少デフォルメ)。
僕も、自分の院生にはよく、「自分とまったく同じテーマではないとしても(というかそういうものはほとんどない)、博論をベースにして出版された本をいくつか読んで、「イメージ」を身につけなさい」というようなことを言っている(つもり)。だって、まだ研究を始めて数年くらいの人が、20万字前後くらいの論文を書くというのだから、そう簡単にできることじゃない。問題設定の仕方とか、先行研究の批判の仕方とか、構成とか、まあ別に博論じゃなくたって必要なことだけど、でも、経験的に言っても、あまりに量的に違い過ぎると、修論でできたことを分量が増えても反復するだけ、というわけにはいかないもの。ちなみに僕の場合は、もちろん(?)、後期課程の出発時点である程度方向性は決まっていたにもかかわらず、実際には、どうやっていいのか悩み、書き進まないことが多くて、何か参考にならないかと、文献を探したものだった。
誰もが僕ほど混迷するとは限らないけど、「うまくいかない」と思う人には、多少迂遠に思えても、「誰かの博論(をベースにした本)」をいくつか眺めてみることを勧めたい。


あと、もう一つ話題になったのは、院生の中には、妙に気まじめというのか、「先生の「指導」というものをきちっと踏まえなければいけない」と思っている人がいるという話。もちろん、「先生の言ったことはすべて無視して自分の好きなようにやればよい」と本気で言える教員は少ないだろう。やっぱり、「言ったことはある程度聞いてくれないと困る」のである。
でも、「ある程度聞いてくれ」というのは、コメントを一言一句文字通りに受け止めてその通りにやりなさい、というわけではない。そうじゃなくて、「言われたことを自分なりに捉え直した上で、やるべきと思ったことをやる」ということを、教員としては求めているのである(たぶん)。
この「自分なりに捉え直した上で」という部分を欠くと、いろいろと厄介なことが起こる。たとえば、決して良いことではないが、先生だって「間違い」を言ったり、「思いつき」でモノを言ったりすることはある(『上司は思いつきで…』という本がありましたね)。そこまでいかなくても、複数の先生が全く相反することを言うとか、同じ先生が「昨日はああ言ったのに今日はこう言った」ということもあるだろう。それなのに、「左に行け」と言われれば、「止まれ」と言われるまでひたすら左に行き、「右に行け」と言われればやはり同じように…というのでは、いつまでも目的地にはたどり着けないのである。どこかで、「左に行けと言われたが、ぼちぼち止まって右を見ないとね」と思わないといけない。それができないと、「先生にこうしろと言われたからやったのに……」と、「逆恨み」になってしまうこともあるだろう(なお、すべてがすべて「逆」とは限らず、中には、正当なものもあるだろう、ということは申し添えておく)。
まあ、でも、最初は仕方ない。思うに、「自分なりに捉え直す」ことができるようになること=研究者になったということ、なのだろう。そして、そういうことなんだよ、ということを、それなりにはしっかりと教えることが、教員の大切な役割なのだろう。それには、「こんなことも知らないのか!」「そんなことを私に聞くのではない!」と一喝するだけではダメだろうし、やるべきことをあまりに具体的に指示するだけでもダメなのだ。
院生サイドから見ると、「ほどほど不真面目」であることが、実は、院生の重要な素養なのかもしれない。単なる「勉強のできる人」ではダメだ、というのは、そういうことでもあるだろう。もちろん、「ほどほど」であり、では「ほどほど」とはどれほどなのか、という点については、「捉え直して」もらうしかない。なお、自己正当化ではない……つもりである。ただし、その点についてはあまり自信がない。