読書

毛利透『表現の自由岩波書店、2008年。
研究といっても再直近の課題とは直接関係ないのだが、というか、だからこそ読んでしまったというべきなのか。
第1章「自由な世論形成と民主主義」および第2章「市民的自由は憲法学の基礎概念か」。後者は再読。

表現の自由―その公共性ともろさについて

表現の自由―その公共性ともろさについて

「個別の市民への要求ではなく、自由な公共圏をどう維持するかが重要なのである」(15頁)というところに、アメリカ的・個人主義リベラリズムではなく、ハーバーマス的・間主観的民主主義を支持する著者の姿勢がよく表れている。
「決定しないことが、むしろ、政治的に重要」という、著者のやや逆説的にも見える主張は、『民主政の規範理論』でも強調されていたことだったか。それをさらに、公論に基づかない投票の問題性の指摘に結びつけ、アレントの「政治」概念とも重ね合わせるところも、興味深い。
また、価値観の厳しい対立が直ちに武力衝突を招くのではない、とする注での指摘も興味深い(50-51頁)。武力衝突が起こるのは、諸勢力が暴力を有しているからであり、だからこそ、国家が暴力を独占することによって、意見対立が武力衝突に至る可能性を回避できる。というか、国家による暴力独占の意義は、その点に認められる。
さて、著者の考えていることと、僕の考えていることとは、どのように同じでどのように違っているのだろうか。多分、大枠で異なっているわけではない。強いて言えば、著者がハーバーマスにある意味忠実に、そしてその理論的ポテンシャルを最大限擁護する形で、「個別の市民への要求」を徹底的に回避するのに対して、僕はもう少し逡巡があるということであるような気がする。だが、この点をうまく展開することができないので、ひとまずこのあたりで。