下記の二つの論文を再読。

  • 山森 亮「連帯・排除・政策構想:基本所得をめぐって」。

 ベーシック・インカムによって、「連帯の非人称性」を維持することができる、と主張。ベーシック・インカムは、「怠け者」を救済する不公正な制度であり、ひいては社会の集合性を脅かす、というような議論に対する一つの反論といえます。むしろ給付対象を特定化する(人称化する)ことによって、それに当てはまらない人びとの排除を促進し、結果的に集合性が損なわれるのです。

  • 立岩真也「社会的分配の理由:私のため、から」。

 「私」が「できる」こと、「貢献を行うことができる」ことからではなく、「ただ生きていたいと思っている」ということから(255頁)、分配の理由を導こうとしている論考です。
 両者とも、齋藤純一編著『講座・福祉国家のゆくえ5 福祉国家/社会的連帯の理由』(ミネルヴァ書房、2004年)所収。

福祉国家/社会的連帯の理由 (講座・福祉国家のゆくえ)

福祉国家/社会的連帯の理由 (講座・福祉国家のゆくえ)

  • 山崎 望「再配置されるシティズンシップ:政治共同体の変容」『思想』第974号、2005年。

 僕がどうも扱いかねているシティズンシップについて、「なるほど、こういう扱い方があるんだな!」と思わせてくれる論文です。従来のシティズンシップの特質を、「安定性と自明性を強く持つ自己完結的な主体」に、「新しいシティズンシップ」の特質を、「変容に開かれ再帰性を強く持つ」ことに求めている点が大変興味深いです。そのことと、諸シティズンシップ構想における包摂/排除可能性とを照らし合わせています。本稿のポイントは、新しい複数のシティズンシップの構想がそれぞれの差異にもかかわらず、「変容の論理に開かれていない」人々を排除する点で共通している点を指摘している点にあると思います。
 熟議民主主義による選好の変容の意義を強調する傾向のある僕とっては、少々耳の痛い話ではあります。ただ、あえて疑問を提起するとすれば、次の二点でしょうか(同様のことはかつて著者ご本人にもお話したことがあるような気がしますが)。一つは、著者のいう「第二の近代」では好むと好まざるとにかかわらず人々は常に既に自明性の解体や変容への開かれにさらされざるをえないのであって、「排除」をもたらすのはシティズンシップの構想というよりは、「第二の近代」そのものではないか、ということです。もう一つは、著者が最後に提起する「シティズンシップをラディカル化する」提案も、それはそれで人びとに他者への開かれや自らの志向の立ち位置を深く再考することを求めているのであって、その意味では、諸「新しいシティズンシップ」の延長線上に位置づけられざるを得ないのではないか、ということです。まあ、このことを著者ご自身も否定はしないと思われますが。